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 とっても汚くて、とっても臭いと、けんたろうくんは思いました。
 川原の草むらにたおれている男の子のことです。
 よごれてまっ黒の体に、ぼろきれをまとわりつけています。ちかくをハエが飛んでいます。
 ううううう
 と、男の子がくるしそうにうなりました。
 けんたろうくんはお母さんの言葉を思いだしました。
「こまっている友だちがいたら、助けてあげないとだめよ」
 お母さんはこうもいいました。
「服がよごれるようなことしちゃだめよ」
 男の子をたすけると、服がよごれてしまいそうです。男の子は汚くて、臭いからです。
 お母さんのいいつけは、どうやっても守ることができません。
 けんたろうくんは、少し考えて、じぶんの好きにするようにしました。
 汚くて臭い男の子に近づいていきます。
 助けるといっても、どうやればいいのかわからないことに気づきました。
 とりあえず、けんたろうくんは男の子の体にふれて、ゆらしてみました。
 男の子が目をさましました。


 桑島健太郎{くわしまけんたろう}は頬に小さな、しかし無視できない痛みを感じた。
 クラスメイトのいたずらで、シャーペンの芯が投げつけられたわけではない。痛みを感じたのは左の頬だった。そちらがわには、窓しかない。
 虫刺されでもないだろう。教室内でときおり鼻をすする音がするくらいだ。震えるほどではないが、この季節、二階まで飛ぼうという元気な虫はいない。
 二度目のチクリがきた。
 左頬をなでる。
 あと五分で、退屈な古文の授業が終わる。頬がどうなっているか、鏡で確認したほうがいい。
 だめだ。昼休みだった。購買に行って、カツサンドを買わなければいけない。
 鏡かカツサンドか。
 健太郎は、どちらにしようか頭をひねった。
 また、チクリ。
 さっきより痛い。
 窓のほうをむいた。いつもとちょっぴり違う景色がそこにあった。曇り空のことではない。校門に、ふたりの人物が立っていたのだ。
 ひとりは黒髪を腰までのばした女子だ。見覚えのある制服は、海鳴高校のものだろう。教室からは距離があって顔はよく見えないが、きっと美形に違いない。立っているだけで、さまになっている。美女でなければウソだ。
 もうひとりの男は、帽子を目深にかぶっているので、人相はまったくわからない。こちらは夕艶高校の、つまりこの学校の、制服を着ている。
 チャイムが鳴った。
 男が帽子をかすかにあげた。
 あの痛みが、おでこに刺さった。
 教室内の喧騒をかすかに耳に感じながら、桑島はおでこをさすった。
 わかった。
 小さな、しかし無視できない痛みは、あの男の視線が刺さっていたのだった。


 汚くて臭い男の子は、元気になりました。
 どうして元気になったのかはわかりません。
 けんたろうくんは、あの日から、給食のパンをのこして、川原にもってくるようになりました。男の子にあげているのです。
 男の子の名前はわかりません。うー、とか、あー、とかしかしゃべらないからです。
 顔のあちこちが、おおきくふくらんでいて、じゅぶじゅぶと黒い汁がでています。男の子が汚くて臭いのは、その汁のせいです。
 どこからきたのかもわかりません。ぼろきれを体にまいているのは、服がないからでしょう。
 汚くて臭い男の子は、草むらに寝てしまいました。パンを食べるといつもそうです。
 けんたろうくんは、ぼんやりしていました。きょうは体育で、さかあがりができませんでした。
「くわしまくーん!」
 女の子の声に、ふりかえります。クラスメイトのこじまさんです。かわいくて、いいにおいのする女の子です。下のなまえは、みことです。こじまみことさんです。
 こじまさんが、川原へおりてきます。両目の下に、それぞれほくろがあります。かわいいです。
 こじまさんもさかあがりは苦手です。だから、なかよくなれました。
「なにして……」
 こじまさんの声がとぎれます。息をすいこむ音がきこえました。
 けんたろうくんはふりむきました。
 汚くて臭い男の子がたちあがっていました。


 校舎からでて、桑島健太郎は空を見上げた。昼間よりも、雲が黒い。
 雨が降るか、降らないか。
 健太郎はちょっと考え、降らないことに決めた。いくら考えても、天気がどうなるかはわからない。自分の好きなほうにしてしまっていいだろう。
 帰宅していく生徒たちが、校門をぬけていく。健太郎もその群に合流して、校外へとでた。左右を見回す。あのふたりがいるかもしれないと思ったのだが、杞憂だった。
 いったいあの男女は何者だったのか。痛みを感じるほどの強い視線。男はいったいなにを見ていたのか。
 自分には関係ないさ、と健太郎は歩きだした。数歩といかないうちに、アスファルトに黒い点がついた。見る間に数がふえていく。
 かるいため息をついて、かばんを頭の上においた。雨にはぬれたくなかった。軽く駆けて家路を急ぐ。雨足のほうがはやかった。たちまち本降りになって、追いたててくれる。
 健太郎はたまらず、帰宅途中にある公園へ飛びこんだ。園内の何ヶ所かに、東屋があった。そのひとつに駆けこむ。
「本能的に雨をいやがるだろうという予想」
 女の声がした。
「あたり、ね」
 東屋の屋根を支える太い柱。その裏側から声がした。
 無視するか、声をかけるか。
 健太郎が決定する前に、柱の影からその女がでてきた。
「あ」
 無意識に、口から声がもれた。
 彼女も雨にあったのか、黒髪が艶をおびて腰まで流れていた。海鳴高校の制服に身をつつんだ美女は、校門に立っていた女性と同一人物だった。
「はじめまして」
 女が目をほそめた。ミステリアスに見えるのは、泣きボクロが両目にあるせいだろう。
 女が、今度は、唇のりょうがわをつりあげて笑った。
「小島美琴よ。よろしくね」


 こじまみことさんが、おおきく目をあけて、一歩うしろにさがりました。汚くて臭い男の子におびえたのです。
 男の子は顔のはれものから、じゅぶじゅぶと黒い汁をだしているのです。いやがられて当然です。
 けんたろうくんは、こじまさんに男の子のことを話そうとしました。
 できませんでした。
 男の子のほうが早かったのです。
 迷うことなくこじまさんに近づき、右手をまっすぐに突きだしました。
 なにをするつもりなのかわからなかったので、けんたろうくんは邪魔ができませんでした。あっと思ったときには、もう男の子の腕が、こじまさんの胸から背中へ貫通していました。。
 けんたろうくんは、ショックでピクリとも動けませんでした。
「邪魔、だ」
 だれの声かわかりませんでした。
 でも、ここには二人しかいないし、けんたろうくんはしゃべっていませんでした。
「やっと、話せる、ように、なった」
 汚くて臭い男の子が、腕を引きぬきました。こじまさんがくずおれます。
「心配、するな。この女は、本物じゃ、ない。本物は、あちらの世界、にいるはずだ」
 男の子がいい終わらないうちに、たおれたこじまさんが変わっていきます。顔のあちこちが、大きくふくらみはじめ、じゅぶじゅぶと黒い汁がでています。目玉からぷちゅぷちゅと汁がでて、どろりとこぼれ落ちました。どんどん汚くて、臭くなっていきます。手や足もどろどろにとけてます。


 桑島健太郎は目線をさまよわせた。
 こじまみこと。その名前が記憶のどこかにひっかかる。どこかで聞いたことがあるような気がした。
「わたしね」
 困惑もおかまいなしに、小島美琴がしゃべりだした。目をとじ、腕をひろげて、おおきく息をすう。微笑がうかんだ。
「こちらがわの空気を吸うのは、ほんとひさしぶりなのよ。洗われるわ、肺のなかがね」
 健太郎はあとずさった。この女、ちょっとおかしいんじゃないかということに、いまさらながら気づいた。
「怖がらなくてもいいわ。気がふれたわけじゃないから」
 小島が目をあけた。
「わたし、ずっとあちらの世界にいたのよ。小さなころからずっとね。つい最近なのよ、帰ってきたのは」
 小島が東屋の屋根から手をさしだして、雨粒をうけた。
「これから、家に帰るとこ。十年ぶりになるかしら」
「えっと……」
「だれかのせいで、これから大変よ。十年も行方不明になってた言い訳をしんじさせないといけないんだものね」
「あの……ぼくはそろそろ」
 雨に濡れるのはいやだが、これ以上ここにはいたくない。ひきつる頬にそんな思いをこめ、健太郎は体を反転させた。
「ほんとは身代わりがいるはずだったんだけど、だれかに壊されちゃったのよね。ほんと、こまっちゃうわ」


 こじまさんが、どろどろとまるで泥のような固まりになってしまいました。彼女のふくだけが、泥のなかにうもれています。
「嫌い、なんだよ」
 汚くて臭い男の子がいいました。
「自分と、おなじものが、嫌い、なんだよ。同属嫌悪、ってやつかな」
「あ、あああ、あ、ああ……」
 けんたろうくんは、言葉をだせませんでした。いったい、なにがどうなって、こうなっているのでしょう。まったくわかりません。
「しかし、身代わりを、こわした」
 けんたろうくんのとまどいをよそに、汚くて臭い男の子はしゃべりつづけました。
「あったことはないが、本物の小島美琴、あとで、きっと、苦情をいってくるだろうな」


 東屋の外へ駆けだそうとした健太郎の背中に、その言葉がぶつかった。
「昔、あちらの世界から、こちらの世界へ、男の子がひとりやってきた」
 健太郎はたたらをふんだ。
「身代わりとしての役目をはたすためにね。こちらの世界へやってきて、最初にさわった人間をコピーして、すりかわるために」
 なにが琴線にふれたのか、健太郎はふりむいた。
 小島美琴が右目の泣きボクロにふれ、
「もともとあちらの世界の泥が原材料だから、姿かたちをまねるのは簡単なのよ。粘土細工みたいなものね。すごいのは、言葉や性格もコピーできるってこと。どういう原理かは、わたしは知らされてないわ」
 健太郎の頭に浮かんだ言葉はふたつだった。
 信じる、と、信じない。
 信じないのは簡単だ。そんなバカな話と一笑にふせばいい。信じることも簡単だ。美人の発するオーラにのまれればいい。
 健太郎はどちらも選ばなかった。いつものように、好きにしたわけでもなかった。
 ただ、理解したのだった。彼女の言葉にまちがいはないと。
 靴の音が背後でした。
 健太郎はふりかえる寸前、小島のくちびるのはしがつりあがるのが見えた。
 東屋内に、男がはいってきていた。夕艶高校の制服だ。帽子を目深にかぶっているので、人相はまったくわからない。
「よお、ひさしぶり」
 男が右手をあげた。どういうわけか、その声は健太郎にそっくりだった。
「やっと会えたな」
「あ、あなた……」
 健太郎は一歩うしろにしりぞいた。頭のなかで、危険信号が明滅していた。
「どういうわけか、すっかり自分の記憶をなくしてるみたいだな」
 健太郎にそっくりの声で、男がいった。
「オレがお前をうらんでいる理由なんて、想像がつくまい」
「う、うらむ? ぼくを?」
 男はすぐには答えず、もったいぶった動作でつばに手をかけた
「ああ、そうだ。お前をうらんでいる」
 男が帽子をはずした。
「うらんでいるぞ。名なしの泥人形め」
 と、健太郎をゆびさした男の顔は、健太郎とうりふたつだった。


 はあ、はあ、はあ。
 けんたろうくんは、自分の息の音をききました。耳のおくで、血もどくんどくんといっています。
 こじまさんのことにショックを受けたのもそうですが、それだけではありません。
 汚くて臭い男の子の顔が、どんどんかわっているからです。
 顔にできていたはれが、ぼろぼろとかさぶたがはげるように落ちていきます。でていた黒い汁も乾燥して風にとばされていきます。
 汚くて臭い男の子ですが、いまはもう汚くて臭くありません。何分もしないうちに、むきたてのゆで卵のように、つややかでなめらかな肌をしています。
 着ているのはあいかわらずボロですが、そんなことは着替えればすむことです。
 男の子が笑いました。
「今日から、オレが健太郎だ」
 男の子の顔は、けんたろうくんとうりふたつになったのでした。
 けんたろうくんは、あとずさりました。
 じぶんそっくりの男の子が、すぐ目のまえにあらわれたのです。無理もありません。
 けんたろうくんは、もう一歩、うしろにさがろうとしましたが、できませんでした。
 足首をなにかにつかまれたのです。見おろしましたが、なにも見えません。でも、たしかに足首はつかまれているのです。
 ついにけんたろうくんは、恐怖に悲鳴をあげそうになりました。
 叫び声はでませんでした。なにかが首をしめたのです。
 なにかは、腕をつかみ、胴をつかみ、体中のあちこちをつかんできます。けんたろうくんは身動きできません。
「さようなら」
 けんたろうくんそっくりになった男の子は、にっこり笑って手をふりました。
 けんたろうくんの体がもちあげられます。空中にういているように見えます。
 目をむいたけんたろうくんが、なにもない空中に吸いこまれていきます。
 着ていた服や、クツが、ポロポロ落ちてきます。あちらの世界にいけるのは、けんたろうくん本人だけなのでした。
 けんたろうくんそっくりの男の子は、落ちた服に近づきます。服を着て、なにくわぬ顔で、けんたろうくんになりすますのです。
 いえ、こちらの世界では、この男の子がけんたろうくんなのでした。


「どういうわけか、自分が泥人形だということをわすれているらしいな。欠陥品か。耐用年数が近いからか。いったいどっちかな」
 帽子の男が、にやりと笑いました。
「どちらにしろ。すぐに壊す。欠陥品ということにしておこう」
 桑島健太郎は生唾をのみこんだ。壊す? なにを? 泥人形とはいったいなんのことをいっている?
 答えをだす前に、健太郎は走りだした。東屋の外に飛びだす。
 健太郎はすべってころんだ。水をふくんだ土がほおをこすった。ぱらぱらと、その体に雨が。こんなときにすべって転ぶとは、なんたるドジ。
「ドジなんかじゃないさ」
 男が東屋からでてきた。
「あちらの世界で訓練を受けた。オレは手をふれずに物を動かせる。転がせることくらいわけないさ」
 男の声をききながら、健太郎はにぎりこぶしをつくった。頭のなかの危険信号は、ずっと鳴りっぱなしだ。
「長かったぞ、十年は。お前がこちらの世界でオレになりすましてのうのうと生きているあいだに、本物のオレがどんな目にあっていたか、想像できないだろう」
 本物のオレ? 健太郎は上半身をおこして、男をにらみつけた。
 健太郎の顔で男は、
「十年前、お前に出会ってなければ、いや、ふれていなければ、こんな目にはあわなかったのにな」
 と、右手を肩の高さにあげた
「お前ら、泥人形の壊しかたは知っている」
 帽子の男がアクションをおこす寸前、健太郎は握り拳をふった。
 ふる動作の途中で、手をひらく。
 つかんでいた土が空中で拡散し、男の顔面をうった。
 健太郎は起きあがり、脱兎のごとく駆けだした。
「わたしがいるのよ」
 小島美琴の声だと判断するよりも早く、天地が逆転した。
 背中をしたたかに打ちつけたのは、次の瞬間だった。
 一瞬、息がとまる。
「わたしも、あちらの世界にいたのよ」
「お前にはもう関係ないことだがな」
 男の声が、すぐそばでした。
 行動をおこさなければならないとわかっていても、痛みで思うように体がうごかない。
 男が軽く息をはくのが聞こえた。
 胸をなにかが貫通したのを感じたのが、最後の感覚だった。
 雨はまだ、しとしとと降りつづけていた。
「この町の」
 小島美琴が、桑島健太郎の制服をひろいながら、
「燃えないごみの日って、いつなのかしらね」
「さあ、ね」
 帽子の男――いや、ほんものの桑島健太郎は、興味さなそうにいった。


 けんたろうくんは川の水で、体の汚れをおとしました。
 川の水もきれいとはいえませんが、自分の体についている黒いあかよりはましです。
 脳内で、オリジナルのけんたろうくんの情報が整理されていくのがわかります。服をきて、家に帰るころにはより完璧にに近づいているでしょう。
 けんたろうくんは川からあがると、服のあるところまで歩いていこうとしました。
「ん」
 と、みけんにしわをよせます。
 おかしいのです。なにがおかしいのかはっきりわかりませんが、川にはいるまえといまではなにかがちがっているのです。
 なにかがちがう。
 その違和感が、けんたろうくんをその場にあしどめさせてしまいました。
 けんたろうくんがもっと鈍感で、違和感に気づかなければ、あるいはもっとちがった結果がまっていたかもしれません。
 けんたろうくんが固まっていると、草かげから、なにかが飛びだしてきました。
 いえ、なにかではありませんでした。どろどろにとけた黒い液体――こじまさんのざんがいです。生きていたのです。なんという執念でしょう。
 けんたろうくんの動きも、けして遅くはありませんでした。感じた違和感が、こじまさんのざんがいが見えなかったことだと看破した瞬間には、すでに行動をおこしていました。
 しかし、こじまさんのざんがいは、それよりも早かったのです。体の大部分がとけ、体重がへっていたためでしょう。
「うげ」
 こじまさんが、けんたろうくんの口に飛びこみました。


 桑島健太郎と小島美琴が去ったのち、十五分ほどたっただろうか。
 黒い泥の山がもぞりと動いた。表面が雨にぬれ、流れる水に少しづつけずりとられている。ほうっておけば、水にとけていくだろう。
 しかし、濡れているのは表面だけだった。そのなかの本体が、もぞもぞと屋根のある東屋まで移動していた。
 十年前、健太郎の泥人形のなかに進入し、侵食して征服した小島美琴の泥人形だ。いや、その残骸であった。
 生きる、という意志であろうか。東屋の屋根の下へ、雨を逃れる。ナメクジのようにはいすすみ、柱の影にかくれる。
 それから、どれくらいたっただろうか。雨を逃れるように、一匹のノラ犬が東屋にはいってきた。
 小島美琴の残骸は、そのチャンスを見逃さなかった。柱の影からおどりでると、犬の口内へとすべりこんだ。


 桑島健太郎は頬に小さな痛みを感じた。
 クラスメイトのいたずらで、シャーペンの芯が投げつけられたわけではない。痛みを感じたのは左の頬だった。そちらがわには、窓しかない。
 蚊にでもさされたのだろうと、健太郎は気にもとめなかった。
 額ににじんだ汗をぬぐう。
 蚊にさされたことも、汗をぬぐうことも、ほんとうにうれしかった。あちらの世界では、蚊もいないし暑くもない。こちらにもどって半年たつが、毎日が充実していた。
 健太郎は窓のほうをむいた。夏の空を見ようとしたのだが、いつものとちょっぴり違う景色がそこにあった。
 校門にノラ犬が一匹たたずんでいた。
 ノラ犬はうらめしそうに上目づかいでにらんでいたかと思うと、どこかへトコトコと去っていった。

 最近、おっさんと話していないなと思っていたが、家の前を通って納得した。
 葬式をやっていたのだ。直感で、あのおっさんが死んだのだと理解できた。
 ぼくは喪服を着た人びとから目をそらし、正面だけを凝視して、急ぎ足で通りすぎた。
 角を曲がったあと、首をすくめてうしろをふり返る。おっさんの霊がついてきてやしないかと心配したが、暗い道がのびているだけで、おばけのたぐいどころかひとっこひとりいなかった。
 おっさんにたいして、うしろめたい思いがあるわけではない。ぼくは子供のころから霊感が強く、幽霊にも好かれるようなので、もしやと心配しただけだ。
 徒歩で出社しているぼくは、ほぼ毎日といっていいくらい、あのおっさんと朝の挨拶をかわしていた。決まった時間に家の前に立ち、微笑みながらたたずんでいるおっさんは、だれかがそばを通るたび、「おはよう」と会話の口火をきるのだった。
 定年退職で手持ち無沙汰になり、出社時間にだれかれともなく挨拶するようになったおっさん。
 ぼくはそう理解していた。柔和な雰囲気を漂わせているだけでなく、会話のなかに折り目正しさがうかがえたので、きっと部下には慕われていただろう。
 おっさんの葬式を目撃してから数日は、別の道を通って出社した。遠回りになってしまうが、半透明のおっさんがいつも通りに挨拶してくるような気がして、脚が自然と別の道を選んでいた。
 だが、一週間もたつと、さすがに恐怖も薄らぎ、通いなれた道で出社することにした。
 それでも、首をギプスで固定したみたいに真正面だけを見すえて、おっさんの家を通りすぎる。
 なにもおこらなかった。「おはよう」の声もない。
 幽霊に遭遇しなくてすみ、ぼくはほっとしながらも、寂しさを感じていた。
 脚をとめてふりむいた。家の前にはやはりなにもいなかった。
 おっさんのいたのと同じ場所に立って、同じ方向をむいてしまったのは、だから寂しさを紛らわすためだったかもしれない。
 ぼくは驚きで息を飲んでしまった。霊感が強いせいで、幽霊に遭遇したのは一度や二度ではないが、こんなのは初めてだった。
 道を挟んだ向こう側に、全裸の女が立っていたのだ。半透明なのは幽霊だからだろうが、彼女の肉感的な体に、そうと知りつつ生唾を飲み込んでしまった。
 全裸幽霊は隣り合った家の隙間にいた。左右の壁に肩をこすりつけるようにすれば、ひとひとりがなんとか通れそうなほど細い路地である。
 彼女は顔に笑顔を貼りつけたまま、狭い場所にもかかわらず、器用に踵を返した。おおきな、しかし形のいいヒップをふりながら、しゃなりしゃなりと奥へむかっていく。行きどまりにつくと、右へと曲がった。幽霊特有の能力で壁をすりぬけたわけではなく、路地自体が右に折れているらしい。
 ぼくは上半身をひねって、背後を確認した。全裸に誘われて前に出ていたので、さっきまで立っていた位置が視界にはいってくる。
 おっさんが生前立っていた場所だ。手持ち無沙汰で立っているものだと思い込んでいたが、もしかしたら、女性の全裸幽霊を眺めていただけなのかもしれない。「おはよう」という挨拶も、そうやって視線を自分に集めて、路地のほうへ目をむけさせないためか。
「独占欲」
 ふいに口をついてでた言葉だった。「老いてなお盛なり」とまで声にすれば、「まだ老いたつもりはない」と、おっさんが化けてでてくるかもしれない。
 ぼくは左右を見回して、だれかいやしないか確認した。細い路地にはいる直前に、もう一度、周囲をうかがった。だれかがいれば深追いをやめようと考えていたが、ひとっこひとりいなかった。


 両肩を壁にこすりながら、ぼくは路地の奥をにらんでいた。
 見上げれば、細い空をうかがえただろうが、視線を切るのはためらわれた。得体の知れないものが飛び出てきやしないかと用心しながら、奥をめざしていく。
 余人がいれば、不思議に思うかもしれない。葬式から視線をそらすほど霊を恐がっていたのに、どうして路地にはいったりしたのだろうかと。幽霊の裸に魅入られた、という理由を想像されるとしたらショックだ。もてる男ではないが、そこまで飢えてもいない。
 全裸幽霊に驚いたのは、すっぱだかだったからだけではない。なにも気配がしなかったのだ。
 この世のものではないから当然だといわれるかもしれないが、精霊のたぐいとは違い、幽霊が出現するときには、言葉にはできないなにかしらの気配が発生するのだ。ぼくにはわかる。その気配がなかったので、気になってあとを追っているのだった。
 くり返しになるが、けして色香にまどわされたわけではない。彼女いない暦は二十五年になるが、服を着ていないぐらいで、未知の存在にのこのこついていくほど、すけべではないのだ。
 路地が右に折れる手前で、ぼくは脚をとめた。曲がり角から、そうっと、顔を半分だけだす。下半身はうしろに引きぎみで、はたから見れば情けない姿だろう。
 曲がった道の先には、なにもなかったし、なにもいなかった。細い路地はまっすぐのびて、ブロック塀に突き当たっている。そこから左に曲がっているようだ。
 ぼくは来た道をかえりみた。
 逡巡は五秒ほどだったろうか。脚が奥へ踏み出した。
 道が折れるたびに、なにかいるかもしれないと恐々確認しながら、へっぴり腰で進んでいく。
 そうして、何度か曲がり、そこへ辿りついた。東西南北、四方向を家に囲まれた狭い土地だった。ひろさは二畳ほどだろうか。地図にも載っていなさそうな、小さな空き地である。土地の権利関係がどうなっているのか不思議だった。まわりを囲んでいる家主のだれかが、所有しているのだろうか。
 その空き地には、雑誌がうず高く積もって小山を作っていた。高さは身長を越えるほどもあるだろうか。
 一冊、手にとってみた。表紙には、布地の少ない水着を着た女性が、官能的なポーズをとっている。ページをめくれば、全裸の女性ばかりだった。ほかの雑誌も同様で、服を着ている女性はひとりもいなかった。
 いわゆるエロ本である。
 東側にある家の二階で、カーテンが揺れるのが見えた。
 ぼくは路地に引き返し、かがんで身をひそめた。
 二階の窓がひらき、中学生くらいのにきび面の男が顔をだした。
 なにをするのかと注視していると、彼は雑誌を数冊、窓外に放りだした。エロ本の山に、新たに積もる。
 なにが起こったのか。しばし考えをめぐらした末、ぼくは膝を打った。
 にきび面はエロ本の処分に困り、家の裏に捨てていたわけだ。ここならひと目につかないし、四軒のうちどの家から捨てられたのか判別がむずかしい。
 一冊二冊ならいい考えかもしれないが、さすがに小山になるほど捨てたのでは、いずれおおごとになろう。中学生という勢いのある年頃を考えても、度がすぎていた。
 カーテンが閉まったのを確認してから、ぼくはまた、エロ本山に近づいた。
 全裸の幽霊に誘われて待っていたのがこれでは、納得しがたかった。あの女性の出現は、なにを意味していたのか。
 手がかりの片鱗でもないかと期待し、適当なエロ本を手にとってページをひらいた。
 全裸の幽霊がそこにいた。半透明の体が小さくなっているが、形のいいヒップをふりふり、雑誌のなかでポーズをとっている。
 ぼくはあっけにとられて、口をポカンとあけるしかできなかった。
 全裸幽霊は魅力的な笑みを浮かべてから、紙ににじむようにして消えてしまった。あとには、下着姿の女がぼんやりと立っているグラビアが残るのみ。
 そこでようやっと、ぼくは気づけた。幽霊だとばかり思っていたが、その実、エロ本の精霊だったのだ、と。
 エロ本は見られてなんぼ。だれの目にもふれない場所に打ち捨てられるのは、本望ではないはずだ。だから、だれかの視線が欲しくて、エロ本の精が出現した。
 おっさんも知っていたにちがいない。エロ本の精は、半透明なこと以外、いたって魅力的な裸体なので、失くすのはおしいと思ったのだ。だから、このゴミの山を見逃している。
 ぼくも、おっさんにならおう。
 回れ右をしてきた道を引き返した。これから毎朝、決まった時間に路地の入り口を見つめるようになるだろう。

 クリスマスケーキは泣いた。
 恋人のモンブランがつぶれてしまったからだ。
 同じケーキ職人に作られたとわかり、ふたりは意気投合した。つきあいはじめるのに時間はかからなかった。クリスマスイヴの今日まで、なんの問題もおこらなかったというのに……。
 にもかかわらず、モンブランはつぶれてしまった。店員が段差を踏みはずし、モンブランもろとも床に転倒した。栗もクリームもスポンジケーキもぐちゃぐちゃにまざりあい原型すらとどめていなかった。
 クリスマスケーキは店員の胸倉をつかんで壁へ押しつけた。モンブランをかえせと、血を吐くように叫んだ。店員は目をそらして口を閉ざした。なにもいわない。いえるわけはないのだ。
「そのへんにしておけ」
 店のマスターに肩をつかまれた。
「モンブランなんて星の数ほどいるだろ。別のモンブランを用意してやる。もっと栗の輝きが……」
 マスターの戯言をみなまで聞かず手をふり払った。つぶれたモンブランを抱きあげ無言で出口をぬける。
「おい! クリスマスケーキ!」
 マスターの声が背中にあたった。
「お前はクリスマスのためだけに生まれてきたんじゃないのか! それを放棄するのか!」
 言葉が胸に刺さる。イヴの日にクリスマスケーキが店からでていってどうするというのか。存在理由を自分で否定しているのとかわらない。
 ――なんのために生まれてきたのか。
 それは自問であった。しかし、答えはとうにでていたのではなかったか。
 クリスマスケーキは走った。モンブランを抱いて駆けていく。自棄になったのではない。モンブランを助けるあてを目指しているのであった。
「ひったくりだ!」
 叫び声と同時に周囲がざわめいた。
 前方の人垣を押しのけて、ジャンパー姿の男が姿をあらわした。ブラウンのハンドバッグをつかんでいる。
「どけっ!」
 男の恫喝にクリスマスケーキはすなおにしたがった。まかりまちがってひったくりと乱闘にでもなったら、抱きかかえているモンブランがもっとつぶれてしまうかもしれないから。
 だから、クリスマスケーキはひったくりの進行方向からしりぞいたのだ。
 ただし、右足だけは動かさなかった。
「うおっ!」
 残した足に、ひったくりがつまずいた。もんどりうって倒れる。無防備なわき腹を思いっきり蹴ってやった。
「ふぎゃ!」
 激痛でしばらく動けないだろう。あとは警察の仕事だ。
 はらはらと様子を見守っている初老の婦人がいた。ハンドバックは彼女のものだろう。クリスマスケーキはひったくりからハンドバックを取りあげ、婦人へ手渡した。
「あの……」
 婦人の言葉に片手をあげるだけでこたえ、クリスマスケーキはふたたび走りだした。
 ケーキ職人の元についたのは、それから一○分後だった。
「やるだけはやってみる。保証はできんぞ」
 ケーキ職人のいかめしい顔が、さらにいかめしくなった。しわも深くなる。クリスマスケーキの頼みは、それほどの難題だということか。
「だが、全力でモンブランをよみがえらせてやる!」
 その断言は先の言葉とは矛盾していた。いや矛盾ではない。職人の意気込みであった。
 クリスマスケーキは深々と礼をした。頭をあげたときにはすでに、モンブランと職人の姿は奥の厨房へと消えていた。
 自分にできることはすべてやった――と緊張をゆるめるにはまだ早かった。まだなにかできるような気がした。その感情は錯覚なのだろう。できることなどなにもない。職人を信じて待つしかない。だが、なにかやっていないと心が張り裂けそうだった。
 クリスマスケーキは祈った。いままで祈ったことはない。だが、祈った。それしかできないから。
 扉がひらいた。厨房の扉ではなく出入り口のほうだ。
「やっと見つけたぜ」
 ジャンパー姿の男がはいってきた。さきほどのひったくりである。あの場から逃げおおせたらしい。たいしたものだった。
「リベンジだぜ」
 ひったくりが滑るように走りきた。顔が狂気にゆがんでいる。
 クリスマスケーキはゆるく首をふった。さきほどはモンブランを抱いていた。だから、つまずかせるだけにとどめたのだ。いまは、おのれの身ひとつ。
「うおおおお!」
 ひったくりの拳が空気を灼いて襲いくる。まともにあたればチョコレートでできたサンタの家がふっとぶだろう。その下のクリームも根こそぎもっていかれるかもしれない。
 あたれば、だ。
 クリスマスケーキは悠々と拳をかいくぐった。のみならず、みぞおちに肘を食いこませる。
「うっ」
 と、うめいたあごには渾身のアッパーをおみまいする。
 ひったくりが宙に舞った。放物線をえがき、どうっとばかりに床に落ちる。彼の手足は痙攣していた。白目もむいている。警察がくるまでに目をさましはしないだろう。
「さわがしいの」
 職人の疲れた声にクリスマスケーキは勢いこんで振りかえった。目で問う。
「すまない」
 職人が目をふせた。
 クリスマスケーキはがっくりと片膝をつき、うなだれた。希望の光がとだえたのだ。
「ケーキとクリームの部分はなんとかなったが」
 職人の声に、顔がゆっくりとあがっていく。
「栗がどうしても復元できない。あれがないとモンブランは意識をとりもどせないだろう」
 逆にいえば、栗があれば回復するのだ。
 クリスマスケーキは立ちあがった。無言で礼をし職人に背をむける。その背は職人に告げていた。
 自分が栗を見つけてくる、と。
 漢の背中であった。

 クリスマスケーキは泣いた。
 一ヶ月前からつきあっているモンブランが、店員の不注意でつぶされてしまったからだ。
 意地っぱりで甘えん坊のモンブランは、店員の手からすべり落ちたお盆によって、おおきく形をつぶしてしまっていた。もう、あの笑顔では語りかけてくれない。
 おりしもクリスマスイヴで、街は浮かれざわついているときであった。
 クリスマスケーキは泣きながら店員の胸倉をつかみ、壁へと押しつけた。
 オレのモンブランをかえせと、血を吐くように叫んだが、店員は目をそらして口を閉ざしているだけだった。
「おい、クリスマスケーキ。そのへんにしておけよ」
 マスターの声に、クリスマスケーキは店員を解放してやった。
「いつまでもこだわるんじゃない。モンブランなんて星の数ほどもあるだろう。ほら、こっちのモンブランのほうが栗の輝きが……」
 マスターの説得をみなまで聞かず、クリスマスケーキはつぶれたモンブランをその腕にだくと、脱兎のごとく店をでた。
 ちょうどガラス扉をくぐった客が、何事かとふりかえったが気にしなかった。
「おい、クリスマスケーキ!」
 マスターの声が背中にあたった。
「お前、クリスマスのためだけに生まれてきたんじゃないのか! それを放棄するつもりか! せっかく二十世紀最後のクリスマスケーキになれたのに!」
 マスターの声が、耳にいたい。存在理由を自分で否定しているのだから。
 いや、違う。
 クリスマスに食べられるために生まれたのではない。この腕に抱くモンブランとすごすために生まれてきたのだ。
 クリスマスケーキは走った。
 モンブランを胸にだいて走った。
 自棄になったのではない。モンブランとのたのしい日々を再開するためのあてが、たったひとつだけあり、そこをめざして駆けているのであった。
 モンブランと仲良くなれたきっかけは、おなじケーキ職人に作られたという共通点があったらだ。あのケーキ職人にならば、このつぶれたモンブランを再生することができるかもしれない。いや、きっとできるはずだ。
 クリスマスケーキは交差点を右にまがった。
「ひったくりだ!」
 通行人の声が、まず聞こえた。
 そして、なんにんかの悲鳴。
 前方の人垣を押しのけるようにして、黒いジャンパー姿の男が駆けてきた。手にはブラウンのハンドバッグをつかんでいる。
「どけえ!」
 男の叫び声に、クリスマスケーキはすなおによけた。ぶつかって、抱きかかえているモンブランがもっとつぶれてはたまらない。
 ただし、片足だけは動かさなかった。
「うお!」
 クリスマスケーキの足につまずいた男が、もんどりうって倒れた。
 苦鳴がきこえる前に、クリスマスケーキは男の右足を思い切りふんづけた。
「ふぎゃ!」
 骨折はせずとも、かなり痛いはずだ。すぐには逃げだせないだろう。
 クリスマスケーキは男からハンドバックを取りあげ、前方から走ってきたご婦人に手渡した。
「あの……」
 ご婦人の言葉に片手をあえるだけでこたえ、クリスマスケーキはふたたび歩きだした。
 ケーキ職人の元についたのは、それから五分たってからだ。
 初老にたっし、髪の毛に白いもののまざった職人は、はじめ難色をしめした。
 クリスマスケーキの強い説得の前には、まったく意味をなさなかったが。
「やるだけはやってみよう」
 その言葉を残して、ケーキ職人は奥の厨房へとひきこんだ。
 ストゥールに腰かけ、クリスマスケーキはため息をついた。
 自分にできることはすべてやった。ケーキ職人にまかせるしかない。あとできることといえば、神に祈るのみだ。いや、いまなら、サンタクロースにたのめばかなえてくれるのか。
 二十世紀最後のクリスマスケーキだという自負も、なにもなかった。
 クリスマスケーキは、ただ、祈った。
 扉のひらく音がした。
 厨房の扉ではなく、出入り口のほうだった。
「見つけたぜ」
 黒いジャンパー姿の男――さきほどのひったくりであった。あの場からは、逃げおおせたらしい。たいしたものだ
「リベンジ、だぜ」
 男がつっかけてきた。
 クリスマスケーキはストゥールからおりながら、首をふった。
 さきほどは、モンブランを抱いていた。だから、つまづかせるだけにとどめたのだ。
 いまは、おのれの身ひとつ。
「うおおおお!」
 ひったくりの拳が、空気を灼きながら襲いきた。
 まともにあたれば、チョコレートでできたサンタの家がふっとぶだろう。その下のクリームも、根こそぎもっていかれるかもしれない。
 あたれば、だ。
 ひったくりの拳があたったのは、空気にのみ。
 クリスマスケーキ、すでに、ひったくりのふところにはいっていた。
 みぞおちに、肘打ちをくらわせる。
「う」
 という、うめきが落ちてくるよりも早く、ひったくりのあごにアッパーをおみまいする。
 黒いジャンパー姿が宙に舞った。
 ひったくりが放物線をえがき、どうっとばかりに床に落ちた。
 白目をむき、完全に気絶していた。
 厨房のドアがあいたのは、次の刹那だった。
 クリスマスケーキはふりむき、職人に目で問うた。
 職人は目をふせて、首を左右にふった。
「すまない。わたしでは……」
 クリスマスケーキは片膝をついた。
 希望の光はとだえたのだ。
「ケーキとクリームの部分はなんとかなったが」
 職人の声に、クリスマスケーキは顔をあげた。
「栗がどうしても復元できない。あれがないと、モンブランは意識をとりもどせないだろう」
 逆にいえば、栗があれば回復するということであった。
 クリスマスケーキは立ちあがり、無言で職人に背をむけた。
 その背中は、職人につげていた。
 自分が栗を見つけてくる。そのあいだ、モンブランをたのむと。
 漢の背中であった。

 折原は肩を押されてつんのめった。
 だがしかし、肩を押されたと思ったのは錯覚だった。押されたのではなく、弾丸がかすめた衝撃なのだ。
「ぐわ!」
 と悲鳴をあげたのは折原ではなかった。
 岡島が胸を真っ赤に染めている。被弾したのだ。
 自分のせいだという慙愧の念が頭をよぎった。駆けださなければ山田も刺激されなかったはずだ。
「すまない」
 と心のなかであやまり、折原は走る方向をかえた。もうひとりの岡島にむかう。多勢に無勢である。人質をとらなければ逃げられそうになかった。
 岡島にむかって手をのばして、またつんのめった。
 弾丸がかすめたのではない。だれかに足首をつかまれたためだ。
「逃がじま、ぜんよ」
 足首をつかんだものがそういった。にごった声なのは肺に血が貯まっているからか。撃たれたほうの岡島であった。
「なんで!?」
 瀕死のはずだ。逃亡者など気にかけている余裕はないはず。自分の命よりも逃亡者を捕らえるほうが大事なのだろうか。
「離せよ!」
 折原は岡島の顔面を蹴った。けが人を足蹴にする行為に良心が痛む。だが、足は蹴りつづけた。
 手が離れた。
 ──いましかチャンスはない!
 と、折原は起きあがろうとした。
「逃がしませんよっていってるんです!」
 横合いからタックルされた。もうひとりの岡島だ。ふたりで草原を転がる。
 両腕が腹にまわされ、逃げられないようにがっちり固定されていた。その細い腕のどこに、と思われるほど力が込められている。はずれない。

 折原は靴音をかぞえるのやめた。背後にたくさん集まっている。そんな絶望的な状況だけでたくさんだった。具体的な数など知りたくもない。
「どうしました、折原さん。怖い顔して」
 ふたりの岡島が両手をひろげた。安心してくださいのジェスチャーだろうか。
「なにをそんなに怖がってるんですか?」
「怖がる? オレが? まさかあ」
 折原は首を振った。笑みを浮かべ、
「こんな辺境の惑星にたったひとり。クルーも見つからない。不安で不安でたまらなかった。あんたたちに会えてほっとしてるくらいさ」
 親指で背後をさし、
「おまけに、まだこんなにいるなんて心強いよ」
 と、一歩進む。
 二歩目で駆けだした。岡島にむかって一気に距離をつめる。
 山田は慌てているに違いない。おおぜいの仲間が戻ってきたことに安堵し、油断して銃をさげていたのだから。首を振って確認したときは、あまりの僥倖に笑みさえ浮かんでしまった。
 折原は拳銃と岡島の軸線上にはいった。もう撃たれまい。山田の頭がちょっとアレだとしても、岡島にあたる可能性を考えるはずだ。
 ふたりの岡島が顔をこわばらせた。
「撃つな!」
 ふたりがいい終わるよりも早く、銃声がこだました。

 折原は腰を落とし両足にバネをためた。いつでも動きだせるようにそなえたのだ。
「どうしたんですか、折原さん? 急に構えたりなんかして」
 岡島はあいかわらずにこやかであった。
 どうしたんですかと問われても、折原自身、理由がはっきりとわからなかった。嫌な予感に肌をなめられただけなのだ。
 折原は無言でふたりの岡島をにらんだ。視界の隅で山田もとらえている。
 こめかみに浮いた汗がほほまで流れる。耳のそばまで落ちてきた。
 音がした。汗の流れる音ではない。靴が草をふむ音だ。ひとつではない。複数の靴音。
「折原さん」
 岡島の笑みが深くなった。
「みんなが帰ってきましたよ」
 草をふむ音が近づいてくる。音は、ひとつ、ふたつ、みっつ。
「この惑星の太陽は」
 ふたりの岡島が太陽を指差した。
「沈みだすと早いですからね」
 むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ。まだ増える。
「みんな早めに戻ってくるようにしてるんですよ」
 じゅうさん、じゅうし、じゅうご。靴音の主はどんな顔をしているのか。
 まだまだ増える。

「ほかのチームも戻ってくるころです」
 岡島がにこやかにいった。
「その前に、機材の管理をしているものを紹介しましょう。おーい!」
 彼は宇宙船のなかにむかって呼びかけた。レオンに似た山田はというと、銃を手にこちらを油断なくにらんでいる。
「折原さん」
 岡島に呼ばれた。機材管理の担当がでてきたのだろう。
「はじ……」
 めまして、と続けるつもりだった。だが振りかえってすぐ、驚愕で目をむくことになった。
 ひょろりとした色白の男がいた。岡島だ。ただし、ふたり。
「双子なんですよ、わたしたちは」
 ふたりの岡島が、まったく同じタイミングでニヤリと笑った。
「みなさん、同じ反応をしてくれます。たのしいですよ」
「はあ、双子なのか。それはそれは、驚いた」
 折原は苦虫をかみつぶしたような顔をした。岡島の予想通りにリアクションしてしまった。しゃくにさわる。そっくりなふたりがいれば、考えるまでもなく双子なのだ。なにをびっくりしてしまったのか。
 ──いや、しかし。
 と、折原は振りかえった。
 レオンに似ている山田が、あいかわらず銃をかまえている。
 レオンと山田が並べば、双子で通じるだろう。彼らも双子なのだろうか? レオンに兄弟がいたとは聞いていない。金髪碧眼なのに山田という日本名なのも違和感がある。
 レオンと山田。
 ふたりの岡島。
 そっくりな男が二組にいる。
 肌がひりつくような、奇妙な予感がしていた。

 遠目には黒い宇宙船に見えた。しかし、近づくにつれ、外壁が変色しているのだとわかってきた。惑星の大気圏に突入したときの熱と、その後三年間雨ざらしにあっていたためだろう。
 そばまでやってきて把握できたこともある。少なからぬ外壁がはがれており、船内が外から見えるのだ。
「不幸中の幸いともいえるんですよ。外壁がはがれてくれたおかげで、電源が死んでいても外へでられます」
 気をきかせた岡島が説明してくれた。
 折原は肩を落とした。
「やっぱり太陽光発電システムは死んでるんだな」
「ええ、残念ながら。必要最低限の機材はバッテリで動かしていますが、どれだけ省エネ運用しても、あと二年ほどしか持ちそうにありません」
「ギャレット号に──いや、ギャレット号の残骸のなかにバッテリは残っているかもしれない」
「ほお、それは吉報です」
「もっとも、そのギャレット号がどこに墜落したのかわからないんだがな」
「探索チームをつくって探しましょう。食料も水も豊富にありますからね。食料調達チームを探索チームとしましょう」
 ここにくるまでに、この惑星についてだいたいのところは聞いていた。惑星のひろい範囲が温暖湿潤気候であること。人間の天敵になりうるような動物がいないこと。また、動物や昆虫の姿が見えない理由もわかった。
「どういう習性なのか、専門家がいないのでよくわからないんですがね。動物も虫も、決まったエリアにしか生息していないんですよ。決まったエリアからはまったくでてこない。このあたりでいうと、通ってきた森のなかだけです」
 食料の調達はその森で行っているそうだ。

 森からあらわれた男は、岡島と名乗った。
「わたしも山田も、ノルベール号のクルーだったんですよ」
 ギャレット号の墜落からさかのぼること三年。べつの宇宙船が、この惑星に不時着していたのだった。
「そんな偶然があるんだな」
 折原はおどろきを素直に声にだした。同時に失望もしていた。ノルベール号のクルーたちは三年もこの惑星で生活しているのだ。いいかえれば救助がきていないということ。地球圏への生還は絶望的だった。
「わたしたちは──もうあきらめているんですよ」
 岡島が自嘲気味の笑みを浮かべた。前を歩く山田の背中を目で追い、
「山田くんはね。墜落時に頭を打って、ちょっと、ね」
 と小声で教えてくれる。
 森のなかにある獣道を山田の先導で歩いていた。彼らの住まいであるノルベール号を目指している。ずっと野宿だったので、三日ぶりの屋根つきだ。
「何人いるんだ?」
「わたしと山田くんをふくめて七人です。あなたをいれれば八人になりますね」
「喜んでいいのかどうか」
「わたしたちは歓迎しますよ。ひとが増えるのはいいことです。あ、ほら、もう見えてきますよ」
 森を抜けるとまた草原がひろがっている。ただ、ひとつ違っていた。旧型の宇宙船が鎮座ましているのであった。

「レ、レオン」
 たっぷり絶句したあと、折原はようやっと言葉をついだ。
 レオン──それは男の名前であった。ギャレット号のクルーのひとりである。金髪碧眼で長身の男だ。
「お前も脱出できてたのか! 冗談きついぞ」
「動くな!」
 レオンがさげていた武器を構えなおした。彼の持つ武器は、はたして拳銃であった。だが、ギャレット号にそなえられていたものとは違うタイプのようだ。かなり旧式の拳銃である。
「おい。いいかんげんにしろ、レオン」
「──レオンなんて男は知らない。オレは山田だ」
「は? 山田? 日本人の名前じゃないか。もうちょっとましな……」
「動くなっていっている」
 拳銃を持つ腕に力がこめられた。
 折原はひざ立ちのまま両足にバネをためた。いつでも動けるように用心したのだ。
 眼前のレオンは奇妙だった。山田と名乗っていることもそうだが、使用している武器も不自然だ。もしかしたら、本人がいうようにレオンではないのかもしれない。だとすれば──ほんとうに敵となるか。
「ああ、その、なんだ。山田くん、といったか。武器をさげてくれないか。その──間違えて悪かったよ。知り合いと似てたもんでね」
 とりあえず話をあわせた。
「いやいや、いいんですよ。この世には似た人間が三人はいるといいますからね。宇宙にはもっといて不思議はありませんからね」
 といったのは、レオン──山田と名乗る男ではなかった。森のなかから長身のひょろりとした色白の男がでてきたのだ。
「山田くん。武器をさげてあげなさい。彼は危険な人物じゃなさそうだ」
 どうやら森のなかに姿を隠し、いままで様子をうかがっていたようである。

 ひさしぶりの満腹感と、ふってわいた疑問によって注意力がにぶっていた。
「動くな。ゆっくり両手をあげろ」
 固いなにかを背中に押しつけられるまで、男の接近に気づけなかった。固いなにかが銃の先かどうかはわからない。
 折原は両手をあげながら、
「地球の言葉だな。ギャレット号のクルーか?」
 ギャレット号とは乗ってきた宇宙船の名であった。この惑星のどこかに墜落しているはずだ。
「ギャレット号?」
 背後の男がつぶやいた。尻上がりのイントネーションだ。知らないとみえる。
「三日前にこの惑星に墜落した宇宙船だ。見てなかったのか? ここから距離は離れているが、かなりのおおきさで火を吹いてたんだがな。そうとう目だってたはずだ」
「知らないな。そんなもの」
 背後の男がにべもなくこたえた。
 ポッドで脱出するさい、射出の角度によっては想定以上に飛んでしまうことがある。思った以上に距離が離れてしまっているらしい。どうりでほかのクルーと会えないはずだ。
 ──いや、そんことよりいまは。
 背後の男の正体が気になった。ギャレット号のクルーではないのに地球の言葉をしゃべっている。してみると、自分たちのほかにも、この惑星に不時着している地球人がいたのだ。
「なあ。ここにあった肉はあんたのかい? 勝手に食って悪かったよ。でも、腹がすいてたんだ。かんべんしてくれないか」
 折原はおどけた調子で話しかけてみた。
「とりあえず、背中にあたってるのをどけてほしいんだけどな」
「──なにもしないか?」
「ああ、もちろん。なにもしやしないよ」
 背後の男がすなおに武器をさげてくれた。
 折原は彼を刺激しないように、両手をあげたままゆっくりと振りかえり、
「あ、ああ」
 と、いったっきり絶句してしまった。

 折原誠は丘を一気に駆けあがった。無駄なカロリーを消費しているなと、心の一部が皮肉っていた。
 丘の上からは草原が一望できた。吹く風に草が波打っている。
 折原の鼻が匂いにひくついた。風に運ばれてくる草いきれにではない。肉の焼ける香ばしい匂いが、かすかにしているのだ。
 腹の虫が鳴いた。口中に唾液がじわりとにじむ。脳からの命令をまたずに、脚が走り出していた。
 だれが肉を焼いているかなど考えられなかった。なんの肉かもおかまいなしだ。
「肉、肉、肉!」
 かすかな匂いを追って駆けた。走れば走るほど匂いが強まってくる。空腹の身体が匂いを正確にトレースしていた。人間にこんな能力があったとは意外だった。
 どれほどの距離を走ったのか。もうひとつ丘を越えると森が姿をあらわした。森の入口には焚き火がくまれ、煙がたちのぼっている。
 折原の鼻は敏感に匂いを感じとった。肉の焼ける匂いは、その焚き火からしているのだ。
「肉!」
 ひとの姿は見えなかった。焚き火だけがポツンとあるだけだ。肉を刺した串が三本、火にあたる角度で地面に刺さっている。
 折原は焚き火に駆けより、生焼けの肉にむしゃぶりついた。筋張った肉で、おまけに生焼け。なかなか噛み切れなかった。しかし、口腔にひろがる野趣あふれる味に涙がでそうになった。
 焚き火のそばには竹筒があった。想像通り、なかには水がはいっていた。噛み切れなかった肉は水で流し込んだ。
 三本すべてたいらげて、ようやく人心地つけた。満足のため息をつき口元をぬぐう。そこでようやっと、疑問がわいた。
 だれが焼いた肉なのか、と。
 そして、なんの肉なのか、と。
 ふと思い出した。不時着してから今日まで、動物はおろか虫のたぐいすら見ていなかった、と。

 折原誠は最後の非常食を飲みこんだ。
 仲間のクルーを探しはじめて今日で三日目になる。脱出ポッドに備えられていた食料は一日分しかなかった。遭難した不運に嘆きながらも、食料を三倍もたせたのだ。
 非常食は生存のための備蓄ではない。銀河系からはるかはなれた星系で遭難して、無事でいられるわけがないのだ。非常食があろうかなかろうが、遅かれ早かれのたれ死に。宇宙船の脱出ポッドに非常食が備えられているのは、たんに人道上の問題をクリアするためだった。
「名もない惑星で遭難か」
 苦笑が浮かんだ。泣いても貴重な水分が失われるだけだ。開き直るしかなかった。
 折原たちの乗った宇宙探査船は、突如遭遇した隕石群にエンジンと噴射ノズルを破壊されてしまった。身動きがとれなくなった宇宙船は惑星の重力につかまり墜落。クルーたちは脱出ポッドで逃げおおせたが、ばらばらになってしまったのだった。
 名もない辺境惑星にただひとり。こんな心細いことがあろうか。
「だが、それでもオレはラッキーだぞ!」
 折原は青空にむかって吠えた。気持ちいいくらい声が響いた。見渡せばどこまでも続く草原がひろがっている。宇宙服を着ていなくても生きていける惑星だった。もっとも、未知の病原体がいるかもしれないが。
「そんなの知ったことか! うおおおおおお!」
 折原は叫びながら疾走した。ゴールは二〇〇メートル先の小高い丘だ。
 バカな行為という自覚はある。走る必要も、叫ぶ理由もなかった。だが、精神のガス抜きが必要だった。神経が張りつめたままでは、いつ発狂してもおかしくない状況なのだ。

「教える義理はないですな」
 返事はつれない。
「義理はない、か」
 酒井は苦笑を浮かべた。自分が生ける死人にむかって口にしたのと同じ言葉だったからだ。
「ナイスです、室井!」
 斧少女が高架下から躍りでてきた。
 銃を構えたまま微動もしない男は、どうやら室井というらしい。彼は白髪のまじる髪をオールバックにしている。月明かりだけでははっきりしないが、黒い燕尾服を着ているらしかった。顔に刻まれた皺から六十歳は越えていると推測ができる。しかし、肌の張りだけをとれば三十歳でも通用しそうだった。
「室井、もうひとりの敵は?」
 斧少女が斧を構えながら室井に問うた。目は油断なく酒井にむけられている。
「もうしわけありません。逃げられてしまいました」
「しかたありません。ふたりもあらわれるとは思いませんでしたから」
「ちょいっといいかい」
 酒井はふたりの会話にわりこんだ。
「たぶん、だが。おたくら誤解してると思うぞ」
「なんの誤解ですかな」
 室井が低い声でいった。斧少女と話しているあいだも、たったいまも、銃口は微動もしていない。腕を地面と水平にかまえるのはカンタンだが、持続するのはあんがい難儀だ。だというのに、こうもピタリと決まっているとは。ただものではないという証左か。

 斧少女が高架下へ顔をむけるのを確認するまでもなく、お嬢様とは彼女をさした言葉だろう。
「まさか!」
 酒井は生ける死人の姿を探した。いない。舌打ちひとつ身をひるがえす。高架下へむかって全速力で走り出した。
「待ちなさい!」
 斧少女の声が追ってくる。
 彼女が生ける死人かどうかはわからない。
 カンは違うといっている。だが、判断をあせるとろくなことがない。いまは斧少女の氏素性を知るよりも、生ける死神だとはっきりしている男を追うべきだった。
「待ちなさいっていってるでしょ!」
 怒気を含んだ声がひっきりなしに背中を叩いてくる。距離がひらかない。重い斧を持っているはずなのに……。たいした足腰の強さだった。
 高架下にはだれもいなかった。酒井は足をとめず反対側へと抜けた。
 痩身長躯の男が立っていた。逃げた男とはシルエットが異なっている。さきほど「お嬢様」と叫んだ人物だろう。
「とまれ!」
 男が両手を地面と水平にあげた。灯りの少なさに目がなれたのか、銃口をむけられていることはすぐにわかった。
 酒井は両手をあげた。銃が恐かったわけではない。ほかに人影、つまりは逃げた男の姿がなかったからだ。
 しくじった。
 内心はそう確信していたが、あきらめきれずに、
「男はどっちへ逃げた?」
 と、銃を構えた男へむかって訊いてみた。
「教える義理はないですな」
 返事はつれない。
「義理はない、か」
 酒井は苦笑を浮かべた。自分が生ける死人にむかって口にしたのと同じ言葉だったからだ。

 よけられない。
 瞬間的に確信した。
 巨大斧の一閃は脳天に深く食い込み、赤い飛沫をはじき飛ばすだろう。夜の世界を睥睨する三日月さえ、その未来を疑いはすまい。
「あっ」
 斧少女が驚愕に口をひらいた。
 酒井の左肩からのびた死神の手が、斧の腹を叩いたのだ。軌道のそれた刃が地面に深々と刺さった。
「半分にちょん切られていても、これくらいには使える」
 そして、斧が腕を切れるということは、死神の腕も斧にふれられるという理屈だった。
「おしかったです」
 少女が斧を手にしたまま軽々と跳び、また距離がひらいた。斧は地面に刺さっていたはずだが、まるで苦にせず抜いていた。重さも気にならないようである。
「おいおい。さっきまで斧にふりまわされてたっていうのに、急に軽々と持ち出したな」
 火事場のくそ力、というわけでもなさそうだった。
「油断させるつもりでしたのに、思うようにはいきませんね」
 少女の声は涼しげではあったが、強くひきむすんだ唇からはくやしさがにじんでいた。
 つまりは、重い斧を扱いきれていないように見せて油断させ、ここぞというときに本来の力をだす作戦だったということだろう。
「まさか戦いの最中に胸にさわられそうになるとは思いませんでしたので、とっさに体が反応してしまいました」
「おい、オレは」
 酒井は慌てて弁解しようとした。
 癇癪玉のはじける音に続く言葉を飲み込んだ。
 いや、癇癪玉ではない。拳銃の発砲音であった。一発ではなく連続で鳴った。
「お嬢様!」
 低音だがよく通る男の声が高架下からした。
「こちらにも敵です!」
 斧少女が高架下へ顔をむけるのを確認するまでもなく、お嬢様とは彼女をさした言葉だろう。

 斧をよけながら酒井は首をひねった。今夜この場所に生ける死人があらわれるというのは、未来予知によってわかっていた。予知から十五分遅れたが、それくらいのずれはいつものこと。珍しくはない。だが、死神の使いになってから今日まで、勤務中に邪魔されたのははじめてだった。
 未来予知では、死神の使いが生ける死人と遭遇する時間と場所がわかるのである。逆にいえば、時間と場所しかわからない。遭遇のシチュエーションや、ターゲットの人数などはまったくわからないときている。生ける死人たちは単独で行動するので問題にならなかったし、酒井も同僚も気にしていなかった。
 生ける死人同士で助け合ったりするとは考えづらかったが、いま相対している斧少女もターゲットかもしれなかった。たしかめる方法はひとつだけ。死神の手で核を探すのだ。
 酒井は振り下ろされる斧をかいくぐり、右肩から死神の手を出現させた。実物の手と同じで二本あるのだった。
 斧少女の胸へむけまっすぐにのばす。
 彼女は斧を振り下ろした反動で動けない──はずだった。
 死神の手が空をつかんだ。
 視界の外で空気がうなった。少女が斧を振り上げたのだと直感で理解する。
 酒井が少女のほうをむいたのと、巨大な斧が振り下ろされたのは同時だった。
 速い! と電気信号的な思考が舌を巻いた。死神の手をよけられたときもそうだが、斧を振り下ろす速さもいままでのおっとりスピードとはくらべるべくもなかった。
 よけられない。
 瞬間的に確信した。

 体格と比例するように顔も小さく、陶器を思わせるような滑らかな肌だった。涼やかな目元には力がこもり意思の強さを伝えている。スカートと同じで動きやすさに重きを置いているのか、髪型はショートカットであった。脱色したり染めたりせず黒髪のままなのは、夜闇にまぎれやすくするため──と、これはさすがにうがちすぎか。
 彼女や斧について訊きたいことは山ほどあったが少女は戦う気満々だ。問いかけてもすべてには答えてくれまい。まずはもっとも重要な疑問を確かめるべきだった。
「貴様、その男の──」
 仲間か? と問おうとしたが、
「問答無用です!」
 斧の一振りにさえぎられた。
 跳び退ってかわす。
 不意を突かれさえしなければ、少女の振る斧など脅威でもなんでもない。
 おそらくは、自身の小さな体をカバーするために重い斧を武器として使用しているのだろう。だが、小さな体で巨大な斧を振ろうとしているので、どうしたって予備動作がおおきくなる。スピードがのるのにも時間がかかる。あきらかに武器のチョイスミスだ。
 斧をよけながら酒井は首をひねった。今夜この場所に生ける死人があらわれるというのは、未来予知によってわかっていた。予知から十五分遅れたが、それくらいのずれはいつものこと。珍しくはない。だが、死神の使いになってから今日まで、勤務中に邪魔されたのははじめてだった。

 乱入してきた人影は斧を地面から抜いていた。
「切られたのか。その斧で……」
 絶句するしかなかった。死神の手はこの世の物体に接触されないはずではなかったか。
 では、あの斧はこの世のものではないということになる。
「貴様なにものだ!?」
 酒井の誰何に緊張感が込められているのもむべなるかな。
「それを訊くのはわたしのほうです。いえ、訊く必要はありませんね」
 乱入者が斧を肩口で構えた。
 三日月のはかない光が銀色の斧に反射し、乱入者──彼女の体を照らしていた。巨大な斧には似合わない小柄な体型で、学校の制服だろうセーラー服を着ていた。動きやすさを考慮してかスカートは短く、白いふとももが半分くらいのぞいている。
「奇妙な特技をお持ちのようですが、わたしにも通用しますかどうか」
 彼女が間合いをはかるように、じりじりとすり足で近づいてくる。斧の角度がかわったためか跳ね返る光が頭部にあたった。
 体格と比例するように顔も小さく、陶器を思わせるような滑らかな肌だった。涼やかな目元には力がこもり意思の強さを伝えている。スカートと同じで動きやすさに重きを置いているのか、髪型はショートカットであった。脱色したり染めたりせず黒髪のままなのは、夜闇にまぎれやすくするため──と、これはさすがにうがちすぎか。

 酒井は首をひねった。考え事をするときの悪癖で、敵からも考え中だと看破されてしまうため、上司や同僚からは治せといわれ続けていた。たぶん、これからもいわれ続けるだろう。
「じゃあしょうがない。取り引きはな──」
「たああああああ!」
 裂ぱくの気合が夜空に響き渡った。月光を背中に受けて黒影の人物が舞い下りてくる。
 その人物は、銀色に輝く巨大な斧を頭上にかかげていた。
「はあ!」
 酒井と男の中間点に着地すると同時に斧が振り下ろされる。月光を跳ね返す銀色が弧を描き、死神の手をないだあと地面に深く食い込んだ。
「いでええええ!」
 悲鳴を迸らせたのは酒井であった。なにがおこったのかわからなかった。突然、体の中心で激痛が爆発したのだ。
 だが、痛みはすぐにひいていった。まるでなにごともなかったかのようだった。酒井は激痛に閉じていた目をうすくあけ、直後おおきく見開いた。
 死神の手がなくなっていたのだ。正確にいえば、とちゅうから千切れてしまってそこから先はどこにも見えなかった。消滅してしまったようだ。
 乱入してきた人影は斧を地面から抜いていた。
「切られたのか。その斧で……」
 絶句するしかなかった。死神の手はこの世の物体に接触されないはずではなかったか。

 たしかに、死神の手には酒井自身ですらさわれない。だが、いや、だからこそ、死神の手はこの世にある物体にはふれられないのだ。4mくらいまではのびるが冷蔵庫を物色することすらできない。DVDプレイヤーのディスクを入れ替えるためには、プレイヤーまで歩いていかなければならない。死神の手は、たったひとつの目的以外には、まったく使い道がないのだった。
 死神の手が接触したりされたりできるのは、この世にない物体だけだった。そのひとつが死人の核である。死人の核を破壊することが、死神の手のたったひとつの使い道であった。
「オレたち死神の使いや死神の手を知ってるってことは、埋め込まれた死人の核についても知ってるって考えていいな」
「お、教えて、も、もらった。いろ、いろ」
「そいつのことが知りたい。どんな奴だ。男か女か? いや、第三の性別って可能性もあるな。どうなんだ?」
「し、死人の核をもらうとき、口止めされた」
「義理立てすることもないだろ。いっちゃえよ」
「俺、やばい金、持ち出して、こ、殺されかけ、いや、殺された。それを、助けてくれた。ぎ、義理はある」
「──いっておくが、貴様は死んでるままだぞ。死人の核が体を動かしてるだけだ」
「し、知ってる。それでも、俺……」
 酒井は首をひねった。考え事をするときの悪癖で、敵からも考え中だと看破されてしまうため、上司や同僚からは治せといわれ続けていた。たぶん、これからもいわれ続けるだろう。

「とにかくオレは貴様に同情しない。同僚のなかには情けをかけてできるだけ早く死人の核をつぶすやつもいるが、オレはそういうのは嫌いだ。だから、これからいうことは取り引きと思ってくれ」
 死神の手をゆるめる。ただし、ほんの少しだけ。
「貴様に死人の核を埋め込んだやつのことを吐け。そうすれば、苦しまないようひとおもいにとどめをさしてやる。吐かなければ──じわじわ苦しめながら破壊するぞ」
 酒井はせいぜい意地悪く見えるように唇をゆがめた。
「な、るほど。お前、死神の使い、か」
 男がとぎれがちに言葉をついだ。
「なら、こ、これは、死神の手、か。む、むかつく」
 男が死神の手をつかもうとするが、筋肉質の手はすり抜けるばかりだった。
「ほい残念。死神の手はさわれません」
 酒井はおどけていいながら内心では苦笑をもらした。さわれないってことは役立たずって意味でもあるけどな、と日ごろの考えが頭をもたげたのだ。
 たしかに、死神の手には酒井自身ですらさわれない。だが、いや、だからこそ、死神の手はこの世にある物体にはふれられないのだ。4mくらいまではのびるが冷蔵庫を物色することすらできない。DVDプレイヤーのディスクを入れ替えるためには、プレイヤーまで歩いていかなければならない。死神の手は、たったひとつの目的以外には、まったく使い道がないのだった。

「やはりあったな死人の核」
 改心の笑みを浮かべた酒井は、男の胸に埋め込まれた球体をさらに強く握った。五本の指すべてに力を込めて。そう、死神の手には五指がはえているのだった。だからこそ手といわれるのである。
「うぐむぅ」
 急所をつかまれて苦しいのだろう。男がまた苦鳴をもらした。血の気が失せた顔には脂汗が滝のように流れている。
 死人の核にヒビがはいった。
「がわっ!」
 男の体が跳ね、脂汗が飛び散った。
「貴様にかける同情はない」
 酒井は声に感情を込めずにいった。
「どういう経緯で死人の核を埋め込まれたのかは知らないが貴様は生者を襲った。それこそが貴様の罰。罪を受けなければ……」
 続く言葉を飲み込んで首をひねった。
「ん? 罪と罰の使い方が逆か? ふむ、受けるべきは罰だったか?」
 首を反対側にもひねり、しばし考える。そうしながらも死神の手をゆるめず、死人の核にできるヒビを増やしていた。男が苦痛に耐える声をもらし敵意ある視線を送りつづけているというに、どこ吹く風である。
「なんでもいいや」
 やがて、酒井は晴れ晴れといった。
「とにかくオレは貴様に同情しない。同僚のなかには情けをかけてできるだけ早く死人の核をつぶすやつもいるが、オレはそういうのは嫌いだ。だから、これからいうことは取り引きと思ってくれ」

 高架下から月下へ飛び出た男の体躯は、なるほど、ウェイトリフティングでもやっているかのように頑強だ。上背もあるし筋肉も厚い。男の突進をまともに受ければ一〇メートルくらいは余裕で吹っ飛ばされるだろう。脳震盪はまぬがれまいし、へたすれば骨折だ。
 しかし、酒井は余裕の笑みを浮かべた。
 どんなに筋肉の壁が厚くとも──
「死神の手には……」
 死神の手をだそうとして酒井は動きをとめた。
 涼やかな音色に鼓膜をくすぐられたのだ。
 チリン、と。どこか遠くで鳴る鈴の音。
 気のせいだったかもしれない。それくらい小さな音だった。
 酒井がハッとわれに返ったのは、視界いっぱいを筋肉に埋めつくされてからだった。
「あぶっ」
 とっさに真横に跳んだ。地面を転がりながら、ぼんやりしていた自分に舌打ちする。身を起こしたときには男がこちらにむきなおっていた。両手を突き出し、また突進してくる。
「ああ、えっと──おい!」
 酒井は高架下へ声をかけた。
 女がまだへたりこんでいる。
「いまのうちに逃げろ!」
 女がはじかれたように立ち上がり、背をむけて逃げ出した。
 見届けた酒井は正面にむきなおった。
 男が両手を突き出して、一歩踏み出した位置でとまっていた。
「ううぐむ、がぐうう」
 喉からは苦鳴がしぼられている。
 どんなに筋肉の壁が厚くとも──
「死神の手には意味がない」
 酒井の左肩からくらげのように半透明な腕──死神の手がのびていた。4mほど離れた男の胸に吸い込まれるように食い込んでいる。突進をとめた正体はたった一本の死神の手であったのだ。
 月光を透かす半透明の腕には関節がなく、腕というよりもチューブといったほうが近いかもしれない。死神の手といわれる所以は、しかし腕の先端部分にこそあるのだった。
「やはりあったな死人の核」
 改心の笑みを浮かべた酒井は、男の胸に埋め込まれた球体をさらに強く握った。五本の指すべてに力を込めて。そう、死神の手には五指がはえているのだった。だからこそ手といわれるのである。

 男と女が争いながらもつれあっていた。
 三日月のはかない光が斜めに差し込み、高架下をかすかに照らしている。男のシルエットはかなり大柄で、女の抵抗などものともしていなかった。
「予知より──ふん、十五分遅れだな」
 携帯電話で時刻を確認しながら、酒井メグルは中身の残るアルミ缶を男にむかって投げた。コーヒーの飛まつを飛ばしながら放物線を描き、男の頭上をすぎて高架の支柱にあたる。
「ありゃ、失敗」
 酒井は鼻の頭をかいた。
「なんじゃおら!?」
 男の野太い声がコンクリートの支柱にあたって反響する。狩りを邪魔された苛立ちと怒りが、たっぷりと込められていた。
 女の反応は男よりも鈍かった。一拍遅れて、
「た、助けて!」
 男の気がそれているすきに逃げればいいものを、と酒井は小さくごちた。
 女にとって運がよかったのは、男がもう見向きもしなくなっていたことだ。大柄な黒いシルエットは、赤く光った目を酒井にだけむけていた。
「邪魔してんじゃあねえぞおおお!」
 吠えながら突進してくる。女を人質にとるつもりはないらしい。突然わいてでた邪魔者より自分のほうがはるかに強いとカン違いしているのだろう。
 高架下から月下へ飛び出た男の体躯は、なるほど、ウェイトリフティングでもやっているかのように頑強だ。上背もあるし筋肉も厚い。男の突進をまともに受ければ一〇メートルくらいは余裕で吹っ飛ばされるだろう。脳震盪はまぬがれまいし、へたすれば骨折だ。

 わたしとさゆりが腕を組んで笑っていた。
 テーブルに置かれたフォトフレームからは、幸せオーラがでているようだった。
「おかえり。その写真きれいでしょ」
 声にふりむくと、さゆりがパソコンラックを指さしていた。見なれないプリンタが目にとまる。たしか、写真画質の最新型だ。
「このプリンタで印刷したのよ」
 さゆりがにんまりと笑った。にこり、じゃないところが彼女らしい。
「お誕生日おめでとう」
 プレゼントしてくれるというのか!?
 わたしは感激のあまり、さゆりに抱きつこうと一歩ふみだした。しかし、急な動作だったため、右足が明後日の方向に! まるで計ったかのように、右足がティッシュの箱にはまってしまった。わたしはよろけて、ラックに手をついた。肘がプリンタにあたる。落下は、やけにゆっくりとして見えた。
 バキ! とすごい音がした。

 いま、地球人は選択を迫られていた。
 UFO研究家が感涙にむせんで、はや三年になろうか。記念日となったあの日、宇宙の彼方から飛来してきたUFOは、円盤型でも葉巻型でもなかった。巨大な白玉の真ん中に、エメラルドグリーンの瞳が輝く眼球だったのだ。
 地球人たちが戸惑いつつ見守るなか、はたして眼球が泣いた。陽光にきらめく涙が数粒、地上にむかって落下してくる。
 着地した涙たちには小さな手足が生え、かわいらしい目も開いた。マスコットキャラクターかと見まごうばかりの彼らは、外宇宙からやってきた知的生命体であったのだ。
 人びとは温厚な彼らを歓迎し、抱擁をもってむかえた。ある婦人などは、宇宙人の愛らしさに、五分以上も抱きしめていたほどだ。
 地球を気にいった宇宙人たちが、お願いをしてきた。故郷の同胞にもこの星を紹介したいので、遊びにくるよう誘ってもよいか、と。
 人類はみな、こころよく同意した。
 そして、三年後にやってきたUFOは、円盤型や葉巻型ではなく、眼球ですらもなかった。
 巨大なヒップだったのだ。
 いま、臭い立つ宇宙人たちが、ブリブリと降りてくる。

 興奮で額に汗がにじみ、鼻息も荒くなった。
「ふんが~、ふんが~」
 わたしの鼻息は、マタドールに挑む猛牛よりも、なお猛々しかった。
 それも、むべなるかな。
 眼前には、白い肌に密着した深紅のブラジャーがあるのだ。バラをかたどった刺繍がとても優雅で、男心をくすぐってくれる。
 わたしは慌てて頭をふって、取りついた興奮を追いはらった。ブラに吸いついていた視界が、ゆっくりと元に戻っていく。
 ブラの主が見えた。まなじりをさげ、せつなそうな表情で眠っているのは、まがうことなく鬼瓦則武{おにがわらのりたけ}であった。名前は男っぽいが、性別もやっぱり男だ。
 酒に酔って寝転んだ同僚が、真っ赤なブラをつけている。しかも、ハーフカップだ。
 心くつろぐはずのわが家に、なぜこんなシュールな光景が出現しているのか。理由はまったくカンタンだった。事のおこりは、鬼瓦を自宅に招いたことだった。お互い独身なので気楽なものだ。部屋に冷房を効かし、おつまみを作る。ふたりっきりの酒盛りは、ひとしきり盛りあがった。
 ピークをすぎたころ、わたしは携帯電話を取りだした。
「機種変更して一日たつが、まだ慣れてないんだ。お前はどうだ? 鬼瓦」
 驚くことに、鬼瓦も同じ日に同じ機種に変更していた。申しあわせたわけではなく、まったくの偶然だった。
「ぼくも設定とか全然かえてな~い」
 などと、とりとめもなく話しているうちに、鬼瓦がうつらうつら舟をこぎはじめ、ついには寝転がってしまった。
 服を着たままだと寝苦しかろうと、わたしは同僚のネクタイに手をかけた。ゆるめてやるつもりだったが、どうやらわたしも酔いがまわっていたらしい。手元がおぼつかない。
 胸のうえで手をすべらせたとき、シャツごしに、ほんのわずかな抵抗を感じた。気のせいといってしまえばそれまでの、かすかなデコボコ。
 そのとき、脳内で発生したものがあった。
 スズメの涙ほどの好奇心と、小さじ一杯の探究心と、大ジョックからあふれるほどの悪ふざけ。
 気づいたら、鬼瓦の上半身を裸にひんむいていた。


 チャッラララ、チャッラララ。
 頭のなかで、「トワイライトゾーン」のテーマソングが奏でられていた。新しい携帯電話の着信音はこれにしようと、現実逃避のように考えてしまう。
「あ、そうだ。携帯だ」
 わたしは畳に転がる携帯電話を手にとった。脳による行動ではなく、脊椎反射であった。あるいは、血中で暴れるアルコールの所業か。
 わたしは携帯電話を両手で構えた。脇もしっかりとしめ、シャッターボタンを押す。ぷろぽろぽ~ん、と存外におおきな音がした。
 すわ! 起きるか!?
 とっさに猫足立ちで構えたが、鬼瓦は安らかな寝息をたてているだけだった。
 わたしは安堵のため息をもらした。撮った画像を確認しながら、首をもむ。熱い。予想以上に、酔いがまわっているようだった。
 テーブルの上には、ビールだけでなくウイスキーや日本酒もあった。紅茶や牛乳まであるのは、混ぜて飲みくらべていたからだ。
「そういえば……」
 寝ている同僚は、上半身は見えているが、下半身はテーブルの下だった。もしかしてと、いけない想像をしてしまう。
「いやいやいや」
 男がブラをつけるのはたしかに異常だが、つけてつけられないことはない。だが、下は違う。男には、心臓と同じおおきさの物体がついているのだ。セクスィーなパンツでは、とてもではないが隠し切れない。
 確かめなければならなかった。わたしの好奇心のためではなく、同僚の尊厳のためにだ。
 わたしは邪魔になるテーブルの両端をつかみ、部屋の隅に移動しようとした。ビンやグラスは、めんどうくさいのでそのままだ。
「うお」
 脚がもつれた。斜めになったテーブルから、ビンやグラスがすべり落ちる。ふたをしていたり、飲みきっていたりして、被害が小さかったのが幸いだった。
 いまの騒ぎで、鬼瓦が起きていないかと目をあげて、
「っ!」
 声をあげそうになったわたしは、慌てて自分の口をおさえた。
 鬼瓦の上半身が濡れていた。ビールや紅茶ならまだしも、こぼれていたのは牛乳だった。深紅のブラに、純白の液体。そのコントラストがエロチックで、わたしはしばし呆然と見とれてしまった。
 ぷろぽろぽ~ん。
 ぷろぽろぽ~ん。
 ぷろぽろぽ~ん。
 軽やかな電子音が連続で鳴った。
 我にかえったときには、携帯電話をかまえ、様々なアングルで激写している最中だった。


 わたしは急いで牛乳をふいた。肌にかかったぶんは問題ないが、ブラジャーの一部が変色してしまっていた。
 これは知らないことにするしかない。
 わたしはそう決心し、同僚の尊厳を守るため、ベルトに手をかけた。ためらいなく、淀みなく、躊躇も捨てて、拘束をといてゆく。
 ファスナーをおろし、ズボンをはだけた。
「ぐ」
 驚愕の叫びが、喉につまった。
 男物をはいているなら、よしだった。セクスィーな下着がでてきた場合の覚悟もあった。
 しかし、これは予想外。「どんな下着なのか?」という問題とは、まったく次元が異なっていた。
 正解を先にいってしまうと、鬼瓦がはいていたのは、ブラとおそろいであろう深紅のパンツだった。バラをかたどった刺繍が、洗練された豪華さを演出している。モノはギリギリはみでていなかった。同僚の心臓は、平均よりも小さいのかもしれない。
 わたしが愕然と目をむいてしまったのは、そんなことではなかった。
 鬼瓦則武は、なんと、パンストをはいていたのだった。光沢のあるベージュが、電灯の光をうけて、きらびやかに輝いている。
 同僚の足元を見ると、靴下もちゃんとはいている。暑かったろう、と同情心が芽生えてくる。彼の美意識を理解することはできないが、ここまでされると認めてやるしかない。
「うん、あっぱれだ」
 わたしはひとりでうなずいた。まだアルコールに浸っていない分の思考が、さっきからしきりに警報をならしてくる。
 ぷろぽろぽ~ん。
 ぷろぽろぽ~ん。
 ああ、違う。これは携帯電話のシャッター音だ。なんだか夢なのか現実なのか、はっきりしなくなってきた。
「あ~」
 かすんできた目に、パンストごしのパンツがうつった。誘蛾灯にまねきよせられる虫のごとく、わたしはなんの迷いもなく、鼻先を股間にセットした。
 思いっきり匂いを吸いこむ。
「ふんぐう!」
 鼻腔にするどい針が突き刺さった。一本ではなく何十本と。わたしはあまりの痛覚に、床上でもんどりうった。
 針が刺さったというのは、もちろん錯覚だった。それぐらい、刺激的で攻撃的で破壊的な臭いだということだ。
 おかげで目がさめた。
「危なかった」
 わたしは流れた涙をふきながら、身をおこそうとした。途端、すとんと腰が落ちた。鬼瓦の上に、しなだれかかってしまう。
「う~ん」
 重さのためだろう。鬼瓦が小さくうめいた。
 ま、まずい!
 わたしはとにかく同僚の上からどこうとしたが、力がはいらなかった。思うように動けないが、それでもなんとか体をずらしていく。
 酔いすぎた──というわけではない。恐るべきことに、手足が痺れはじめている。酔いとは別種の、これはなにかの中毒か!?
 思い当たることが、ひとつあった。鬼瓦の股間だ。芳醇を突きぬけて、破壊へと到達した臭い。きっと正体不明の気体が、にじみ出ているに違いない。
 視界がせばまってきた。いよいよガスがまわってきたのか。
「だが、しかし」
 いま、目を閉じるわけにはいかない。眠るのは、同僚に服を着せてからだった。このまま気を失ってしまえば、鬼瓦になにかしたみたいではないか。
 わたしは朧に霞む思考の中で、なんとか打開策を見つけだそうとした。
 どうする、どうする、どうする……。


 鬼瓦が目を覚ました。
 寝ぼけているのか、ぼんやり左右を見渡している。わたしと目があって状況を理解したのか、
「おはよう」
 と、目をこすった。窓からはいってくる朝日が、まぶしいのかもしれない。
 わたしも「おはよう」と答え、ティーカップから紅茶を一口すすった。
「あ~、飲み物は紅茶でいいかな」
 紅茶をいれてやり、さもいま思いついたように、
「そうだ、牛乳いれてみるか。おっと!」
 牛乳パックの口をあけてから、わざと転んだ。飛び散った牛乳が、鬼瓦のワイシャツにひっかかる。
「悪い。これでふいてくれ」
 差しだしたタオルを鬼瓦が受けとり、染みこんだ液体を叩いてふく。これで、ブラの変色もごまかせるだろう。
 わたしは休日なのをいいことに、綿シャツとトランクスという情けない姿で朝食をとった。いっしょに食べている鬼瓦が、わたしの右足を不思議そうに見る。
「すねが青くなってるけど、どうしたの?」
 もっともな質問に対して、わたしは乾いた笑みを浮かべながら答えた。
「ちょっと柱にぶつけてね」
 ウソじゃない。
 あらんかぎりの力をふりしぼり、右足で柱を蹴ったのだ。うずく痛みにより、わたしは意識を失うことなく、中毒が回復するまで耐えたのだった。復調さえしてしまえば、鬼瓦の衣服を整えるくらい簡単だった。
 足の痛みがまだひいておらず、昨夜から一睡もしていないのはご愛嬌だ。
 朝食がすむと、鬼瓦は泊めてもらった礼をいって帰っていった。
 五分間たっぷり時間をおいてから、わたしはおおきくため息をついた。
「さて」
 わたしはあえて声をだし、携帯電話のボタンを押した。一夜あけた後の冷静な目で、昨夜の衝撃写真を観賞するためだった。
 わたしは眉間にしわをよせた。
 写真が一枚も記録されていなかったのだ。
 刹那、脳内で電光が閃いた。
「まずい! 待て! 鬼瓦~!」
 わたしはドアを蹴破って跳びだし、パンツ姿のまま疾駆した。
 同じ種類で、どちらも新品。
 すりかわってしまった携帯電話を追って、走る走る。
「どこだ~!? 鬼瓦~!?」
 絶叫が青空に響きわたった。

   (完)

 満月を見上げたぼくは、驚きで息を飲んだ。小学六年生の小さな体が、興奮でおこりのように震えてしまう。
 蝶々のような羽をはばたかせて、妖精が飛んでいたのである。
 青白い月光幕に、墨で描いたような妖精のシルエットは、胸をかすかに膨らませており、遠目にも女性と知れた。巻き散らかされるリンプンの軌跡が、はかなげにまたたきながら波打っている。
 彼女はフェアリーと呼ばれる妖精に間違いない。会えるとしたら、それは欧州を置いてないと思っていたが、まさか日本の、それも平凡な住宅地で遭遇できるとは、なんという幸運だろうか。
「いた。いたんだ」
 うわずった声は、思ったより大きかった。前を歩いていた友人たちが、気づいて振り返ったほどだ。ふたりのうち、片方が浴衣姿なのは、夏祭りの帰りのためである。
「なになに、なにがいたって?」
「フェアリーだよ、フェアリー! 羽のはえた妖精!」
 ぼくは興奮気味に、空中でスキップしているフェアリーを指さした。
 ふと、蝶々じゃん、と一蹴される不安にかられた。彼女は細い手足を振りまわしているうえに、距離もあるので、見間違えやすい。フェアリーなど空想上の生き物だという固定観念にかられていると、虫に見えないこともないのである。
「なんもないじゃん」
 浴衣姿の友人は、予想外の言葉を口にした。虫というならまだしも、いないとはどういうつもりだ。
「いるって、あそこ! よく見てよ、いるよ。虫でもないよ」
 そういって、ぼくが指さした先には、たしかにフェアリーが飛んでいる。
「しつっこいなあ。いるわけないじゃん。なに? 妖精なんか信じてんの? ばっかじゃないか」
 浴衣姿の罵りは、ぼくの内なるマグマを煮えたぎらせた。突き出した右の拳は、友人の嫌みったらしくゆがんだ頬に食い込んだ。
 よろめいた浴衣姿だったが、ブロック塀に手をついて体をささえ、
「なにすんだよ!」
 と、歯をむきだしにしてむかってきた。
 鼻面をなぐられたぼくは、ふんばりがきかず、あおむけに倒れてしまった。
「妖精なんていねんだよ! ばあか!」
 馬乗りで殴られた。身につけた衣が汚れるなと、ぼんやりと思った。
 もうひとりの友人は、ニヤニヤ笑っているだけである。
「いなんいんだよ、妖精なんて」
 馬乗りになった同級生は、そういいながらぼくを殴りつづけたが、抵抗がなくなったと気づくや、舌打ちを残して立ち上がった。
「おい、行こうぜ」
 もうひとりと連れ立って、その場を去っていく。
 ぼくは立ち上がると、衣の痛んだ箇所をなでながら、フェアリーを目で追った。
 彼女はリンプンの尾を引きながら遠ざかっていた。
 友人ふたりの背も小さくなっていくが、ぼくが追ったのは、羽のはえた妖精のほうだった。
「妖精がいないだって? 冗談じゃない」
 地を蹴って駆けだしたときには、友人たちの存在など記憶から葬り去っていた。
 宙に舞うフェアリーを見上げながら全力疾走。T字路を右に、十字路を左に曲がる。道ともいえない細い路地を抜け、犬が吠える庭を横切りもした。
 小さかったフェアリーが、徐々におおきくなってくる。手足を楽しそうに振っているのがよくわかった。
 まっすぐ飛ばれてしまえば簡単に離されていたに違いないが、彼女は上下に揺れて、遊びながら飛んでいる。空中と地上のハンディは、それで相殺されていた。
 いずれ追いつけると確信を強めたが、
「ぜは、ぜは、ぜは、ぜは」
 肺が悲鳴をあげていた。
 ぼくは前に進もうとしたのだが、小学六年生の小さな体はいうことをきいてくれず、気ばかりあせった結果、両脚がもつれ、もんどりうって転がってしまった。
 間をおかず立ち上がったが、膝から崩れた。転倒したときに、負傷してしまったらしい。動きがとれず、空を仰いだまま歯軋りする。
 フェアリーのシルエットは、夜の闇へとにじで消えてしまった。
「くっそ!」
 アスファルトを叩いた八つ当たりの拳に、輝くリンプンが降りそそいだ。


「はっ、はっ、はっ」
 ぼくは息をはずませながら走った。
 フェアリーと再会したならば、地の果てまでも追っていけるように、脚力を鍛えているのである。
 学校指定のジャージに包まれた体躯は、すでに小学生のそれではない。衣替えを何度か経て、邂逅の日からは、すでに三年が経過している
 千を越える日々は、小瓶に保存したリンプンを眺めて慰めた。
「あれ?」
 だから、夜空を何気なく見上げ、そこにフェアリーを発見したときには、あまりのあっけない再会に、幻覚だと思ったほどだ。
「本物か」
 目をこすってあらためて確認しても、華やかな紋様の羽をはばたかせて空を飛んでいるのは、間違いなくフェアリーであった。リンプンで描かれる軌跡は、見飽きた夜空に神秘のベールをひいていた。
 今回は地上に近かった。街灯の光にあおられ、姿がはっきりと見えている。掌サイズを想像していたが、実際には人間の女性と同じ背丈だった。服も既製品であり、羽はどうやってだしているのかと、疑問が浮かぶ。
 顔もぼんやりと見えた。細面で目じりがたれており、空中をスキップするにふさわしい、楽しそうな笑顔を浮かべている。
 ぼくはフェアリーを追うため地を蹴った。走りこみの成果がでて、手足がスムーズに動いてくれる。月光に照らされた彼女を見失わないですみそうだった。
 フェアリーがぼく以外に見えないカラクリは、すでに看破している。リンプンに鏡のような性質があると、毎日の観察でわかったのだ。光を屈折させて、人間たちから自分の姿を隠している。これも擬態といえるだろう。
 フェアリーとの距離がつまってきた。
「でも、どうしよう……」
 地上に貼りついているぼくでは、空中を舞う彼女に接触できそうになかった。ジャンプして届く距離でもなく、足場をつくる時間の余裕もない。
「待つか」
 走りながら考えた結果だった。フェアリーが羽を休めるまで、追い続ける覚悟を決めた。持久力がものを──否、脚を動かすのは執念だ。
 想い人との勝負は、しかし、あっけなく幕を閉じた。執念に火をつける前に、フェアリーが高度を下げてきたのだ。民家の屋根すれすれまで、降下してきている。
 行く手には林があった。ひと目にふれず羽を休めるには、もってこいの場所である。
 風でゆれる枝葉のなかに、フェアリーが埋もれるように消えていった。
 ぼくはフェンスの手前で立ちどまった。
 私有地らしいので遠慮したわけでも、夜の林に恐怖したわけでもなく、たんに入り口を探しているだけだ。
 視線を巡らせて数秒だけ探したが、結局見つからず、ぼくはフェンスに飛びついた。乗りこえるときに有刺鉄線をつかんでしまったが、気にせず地面に着地する。
 フェアリーが林にはいったときの方向を考慮して、あてずっぽうで走り出した。
 カンがあたったと自信が持てたのは、木々に付着したリンプンを発見したからだ。差し込む月光に輝き、まるで道しるべのようでああった。
 リンプンに誘われるようにして、林の奥へむかって進むと、おぼろげな光がまたたくのが見えてきた。
 ぼくは歩をゆるめ、慎重な足取りで、光へ近づいていった。
 そこは、ひらけた場所だった。近づくにつれ、またたく光の正体に見当がついてきた。フェアリーの羽がひらいたり閉じたりしているに違いない。
 幹から顔を半分だけだし、そっとフェアリーの様子をうかがう。降りそそぐ月光で、彼女の姿がよく見えた。
「あ……」
 喉から飛び出しかけた叫びをかみ殺した。
 フェアリーはうつ伏せに倒れていた。それでもスキップをやめず、だだをこねる子供のように、両手両足を地面にぶつけている。
 いや、それはたんなる痙攣にすぎなかった。楽しそうなスキップに見えたのは、空中を飛んでいるという非現実からなる幻だった。
 ぼくは自嘲で唇をゆがめた。否定するなら、そんなどうでもいいことではなく、もっと重要な事実を否定するべきではないのか。
 横たわって痙攣しているのは、フェアリーではなく、たんなる人間の死体なのだ。顔や手、スカートからのぞく脚が、紙のように真っ白になっているのが、その証拠。生きている者の体色ではありえない。
 しかし、リンプンをふりまく羽は、ゆったりと羽ばたいている。飛ぶための動きではなく、くつろぐためのゆったりした動作である。
 死体の背中に取りつき、優雅に羽を上下させているのは、ぷっくりした胴体の巨大な蛾だった。
 ふいに、脳内に映像が浮かんできた。
 家路を急ぐ女性の上空に、赤ん坊くらいおおきい蛾が迫ってくる。リンプンの効果によって、だれにも目撃できない昆虫は、女性の背中にとりつき、そうして、連れ去っていくのだ。目的はおそらく捕食である。死体の体色が白くなっていることから、体液を吸いだしていると推測できた。
 連れ去られる女性も、リンプンによって人間の目から隠されている。例外であるぼくも、フェアリーに会いたいという欲求によって、目が曇っていた。羽の動きが蛾の胴体を隠していたのと、暗かったせいもある。
 だが、停止したいま、蛾の姿がはっきり見える。
 羽のはえた妖精ではなく、死体に取りついた蛾。
 前回のときも、この巨大蛾は人間をとらえており、それを目撃したぼくは、てっきりフェアリーだと思い込んだのだ。
 失意でめまいがして、うしろへよろけてしまった。かかとの下で、小枝の折れる音がした。
 巨大蛾の頭からのびる触覚が、ひくひくと波打った。
 降りそそぐ月光に逆らうかのように、巨大蛾が飛び上がった。空中で反転し、丸いふたつの目がこちらをむく。
 見つかった。捕まれば、体液を吸いだされてしまう。
 ぼくは踵を返して、一目散に走り出した。
 自慢の脚は、しかし木々が邪魔してトップスピードにいたれなかった。
 それは巨大蛾も同じだけのはず。
 ぼくは確認して安心するために、首だけをふりあおがせた。
 背筋が凍った。
 巨大蛾は木々を物ともせず、ひらりひらりと舞っていた。輝くリンプンが、木々のあいだを縫うようにのびている。
 そうだった。ここは蛾の住処なのである。どこに木が生えているのか、熟知しているに違いない。一流のレーサーがここしかないというラインをなぞるように、巨大蛾もベストの道筋を飛来してくる。
「くそっ!」
 いまの感情をそのまま吐露した。
 左足で思いっきり地を蹴った。ぐんと前に進む。
 あげようとした右足が、木の根にひっかかった。勢いがついたまま、もんどり打って倒れる。
 直後、ずん、と背中に柔らかくて重いものが乗ってきた。
「うわ!」
 悲鳴をあげた口に、リンプンが吸い込まれる。
 ぼんのくぼに、管のようなものが刺さった。体液が逆流していく。ときおり、ジュルジュルという音も聞こえた。
 蝶が花の蜜を吸うように、こうやって人間の体液を摂取していたのだ。
 手足が痙攣しはじめた。つかまれて空中にいたとすれば、スキップしているように見られるだろう。
 顔の筋肉も弛緩しはじめている。体液を吸いだされるとともに、痛みを感じなくさせる液体を注入され、それの副作用だろう。
 ああ、これは終わったなと理解できた。


 巨大蛾がぶるりと痙攣した。全身から力が抜け、羽も地面へついてしまう。
 いくつかあるのぞき窓のひとつから、様子を観察していたぼくは、巨大蛾が死んだことを確認した。
 出入り口は背中にある。皮膚のつなぎ目をひらき、シャツとジャージのすそをめくる。
 蛾の白い腹が見えた。
「ああ、重いったら」
 巨大蛾の体と、衣の隙間から、ぼくはようやっと這い出した。
 外から見ると、元人間である衣は、体液をすべて抜き取られ、予想通り死んでいた。
 いや、ぼくが襲って中にもぐりこんだときに、すでに死んでいるともいえるが、心臓が動いて呼吸をしていたのだから、生きていたといえなくもない。
「こいつ!」
 巨大蛾を蹴っ飛ばす。ぼくよりもはるかにおおきなな蛾は、びくともしなかった。
 しかし、ぷっくり膨れた腹の末端から、緑色の液体が滲んでいた。
 衣の濁った血が、毒になったのだろう。いい気味だ。フェアリーがいるように思い込ませた罪だ。
 同じ妖精でも、羽のはえている妖精は気品がある。ぜひ、妻として娶りたかったのに、たんなる昆虫だったとは。
 ぼくはため息をひとつつくと、人間社会にもぐりこむための新しい衣を求めて、月光の降りそそぐなかを歩き出したのだった。

   (完)

 坂を下るタクシーを見送りながら、床町茂{とこまちしげる}は慙愧の念に心を痛めた。
 こんな気持ちになったのは、二十ニ年間生きてきてはじめてのことだった。
 見上げれば、白い建物が小さく見える。あそこに行くために、ここまでタクシーを飛ばしてきたのだ。
 小高い山の頂上に鎮座ます白い建物、それは病院であった。
 床町はなんとか視線を引き剥がし、道路脇の草むらに足をふみいれた。靴底に感じる感触が、アスファルトの硬さから土のやわらかさにかわった瞬間、世界も同時に変形したような気がしたが、それは気のせいであろう。
 伸び放題の雑草は、その周辺だけは侵食していなかった。いや、逆か。雑草がその周辺だけ侵食されているのだ。
 タクシーのなか、流れる窓外の景色のなかから「それ」を確認できたのは、偶然ではないという気がした。同好の士なのだ。ひかれ会って当然であった。
 床町は「それ」の手前で足をとめた。カンバンが立てられている。小学校の花壇などで、花の名前を書いた小さなカンバンがあるが、あれと同種のように思える。
 そして、カンバンには、こう記されていた。
『ジャンケン勝負!』
 相手はどこだと探す必要はない。カンバンの根元にいる。白い手袋をはめた右手首が、地面から突き出ているのだ。
 床町茂は微苦笑を浮かべた。
 地面から突き出ている手首よりも、カンバンのほうに心動かされている自分がおかしかったのだ。
 正確には、カンバンに書かれた「ジャンケン勝負」の文字に強くひかれていた。「それ」こそが重要であった。地面からはえた手首。そんなものはジャンケンの相手でしかない。
 ジャンケン勝負に命をかける。他の事象はすべて些事だ。
 そんな自分がバカみたいに思え、また苦々しくもあり、浮かべた微苦笑。
 しかし、その微苦笑には、だれもがつかみたいと思ってつかみえない誇りがにじんでいた。


「その勝負、うけた」
 床町茂は手首を見下ろしながら、そう宣言した。
 見下ろされた手首が、スナップをきかせてカンバンをはたいた。
 まるでヘリコプターのプロペラのようにカンバンがクルクルと回転して、そして止まった。
『OK! 三回戦勝負だ』
 床町は内心で舌を巻いた。この手首、相当できるとふんだのだ。
 一本勝負なら、運の要素が非常に強い。もちろん戦術はもちいるが、素人相手でもないかぎり、勝率にはあまり影響してこない。これでは、勝負の面白味にかける。
 そして、三本勝負なら泥沼になってしまう。なぜなら、先に三勝したほうが勝ちというルールなので、引き分けが続けば永久に勝負は終わらないことになるからだ。
 引き分けがそんなに続くわけがないというのは、素人考えだ。運と戦術を同時にもちいることを好む玄人同士がやりあった場合、引き分ける確率はグンとはねあがる。
 一九九四年のことだ。日本の広島市でこんな勝負が行われた。綴喜商店街{つづきしょうてんがい}の近くに、大手のスーパーがチェーン店をオープンさせることになった。もちろん、商店街の住民は猛反対だ。しかし、スーパーはすでに建設にはいってしまっていた。地元住民への説明会は、反対派をのぞいて行われていた。そのアンフェアな行為に、魚屋の啓三さんの怒髪が天をついた。支店長の家に殴り込みをかけたのは、その夜のことであった。普通なら、警察に通報されても不思議ではなかったが、啓三さんにとって幸運だったのは、支店長の榊原がジャンケン愛好家であったことだ。彼は啓三さんの腕の筋肉の動き、視線の運び方からおなじジャンケン愛好家であると看破した。ジャンケン愛好家が出会えば、することはたったひとつしかない。しかも、お互いが対立する立場にあるというのが、またふたりを燃えさせた。
 かくして翌週、スーパーの建設をかけたジャンケン勝負がおこなわれることとなった。市内の中央公園に仮設ステージが立てられ、審判として遺恨の残らないように市長が呼ばれた。
 だが、この市長がいけなかった。まったくの素人であればよかったのだが、多少の毛がはえたジャンケン愛好家だったのだ。彼が選んだ勝負の方法は三本勝負であった。一本勝負の緊張感もいいが、戦略を競う三本勝負のほうが見ていておもしろいというのが、その理由であった。それは素人の場合だ、と啓三さんも榊原もいわなかった。抗議して自分に不利な判定を下されるのを恐れたのだ。
 その話を聞いたとき、ジャンケン愛好家としての堕落だと、床町茂は思ったものだ。そんなジャンケン勝負は放棄してもかまわない。
 しかし、ふたりのジャンケン愛好家は三本勝負でぶつかった。責任がふたりの肩を押さえていた。
 啓三さんと榊原のふたりがステージ上に立ってむかいあうと、市長が間髪いれずに「ジャンケン!」と叫んだ。驚いたのは啓三さんと榊原のふたりだ。はじめての相手と対する場合は、まったく手が見えず、戦略もなかなか練れないものである。だからこそ、相手の腕の筋肉の動き、視線の運び、呼吸の間合い、流れる風のむき、そこに乗る匂いなどから、相手の手を読まなければならない。観察力、経験、そして運。それらを研ぎ澄ます前に、市長は「ジャンケン!」といってしまったのだ。戦略を競うのがおもしろいといっていたくせに、これだ。素人はなにをするかわからない。
 とにかく「ジャンケン!」の号令がかかってしまっては、「ポン!」といってなにか出さなければならない。野球では、ピッチャーが投球モーションにはいってからのタイムは認められないが、それとおなじことだ。
「ポン!」
 ふたりがだしたのは、共にパーであった。目線をあわせた啓三さんと榊原は、微笑を浮かべあった。お互いに相手がパーを出すと電気信号的に判断し、引き分けるためにパーを出したのだ。これで、観察力、経験、そして運。それらを研ぎ澄ます時間ができた。
 人間の思考は、ともするとスーパーコンピューターよりも早いといわれるが、この瞬間のふたりがまさにそれであった。なぜふたりともパーを出したのか? それは市長にむかっての訴えであった。あんたはなにも知らないパーだと。
 このパーの引き分けによって、運の配分はおおきく崩れた。市長のもつ運が、ふたりのジャンケン愛好家へと流れたのだ。
「ジャンケンポン!」
「ジャンケンポン!」
「ジャンケンポン!」
「ジャンケンポン!」
「ジャンケンポン!」
 何度やっても引き分けで、市長のこめかみから汗が流れ出した。掛け声をいい続ける疲れ半分、冷や汗半分だ。ふたりとも市長を困らせようと、引き分けにしているのではない。真剣に勝利を狙っていた。引き分けになってしまうのは、実力伯仲ということもあるが、市長から流れた運の作用もおおきかった。
 昼からはじめた勝負は、夕日が落ちるころになっても終わらなかった。ともに一勝もせずに、引き分けだけを続けていた。音をあげたのは、やはり市長のほうであった。この勝負は無効との宣告をしたのだ。つきあいきれないと。
 床町茂は思う。自分なら、喉がつぶれようとも決着がつくまでつきあうと。
 かくて、ジャンケン勝負は無効となってしまったが、啓三さんと榊原の間には同好の士としての友情が芽生えていた。お互いにゆずりあった結果、スーパーのテナントを格安で契約するということになったのである。結果、店の売り上げは前よりものびているということだ。
「三回勝負なら、三回しか勝負をしないのだから、引き分けが三回続いても勝負は終わる。それでは決着がつかないという人もいるが、オレの場合は違う。オレは常に決着をつけてきた。すべてオレの勝利でな」
 床町茂は手首にむかって胸をはった。
 はたかれたカンバンがまわる。
 止まった。
『おもしろい』
 口はないはずだが、手首が微笑を浮かべたような気がした。


 漫才師が相棒のボケにつっこみをいれるみたいに、地面から生えた手首がカンバンをはたいた。
 ヘリコのプロペラのようにクルクルまわった後、カンバンがとまった。
『勝てば最高の報酬』
「レベルの高いジャンケン勝負ができればオレは満足だが、なにかをかけたほうがやりがいがあるよな」
 しかも、それが「最高」ときた。もっとも、あまり期待してはいけない。勝負を挑んできた以上、手首は自分の勝利しか信じていないのだから、報酬を用意しているかどうか疑わしいのだ。
 カンバンがまた回り、そして止まった。
『ただし、負ければペナルティーだ』
 用心すべきはこちらのほうだろう。地面からはえた手首のいうことだ。ペナルティーもそれ相応のものだという覚悟はしておくべきだ。
 たとえば、負けた時点で地面のなかに封じ込められ、手首だけが外にでた状態になる。そして、ジャンケンする相手を待つというペナルティー。
 それはそれでジャンケン人生を歩むのはいいかなと床町茂は考えたが、慌てて頭をふって追い払った。
 勝負への渇望を失ってはいけない。勝つことだけを考える。それが勝利への秘訣であった。
 床町茂は右手でチョキをだした。
「一回目の勝負。オレの手はこれだ」
 といって、チョキの形をした右手を手首にむかってさらに突き出す。
 だが、左手はパーの形を作っていた。
 駆け引きはすでにはじまっている。手首がこのパフォーマンスをどう判断するか。それがこの勝負を握っている。
 床町は一回目の勝負は捨ててもいいと計算した。後の二回で勝てばいいのだ。そのためには、手首の思考を読まなければならず、推理の材料を集めるための予告パフォーマンスであった。
 もし逆に予告パフォーマンスをやられたら、と床町は考えた。
 相手が素直に右手のチョキなら、当然こちらはグーをだす。ところが、相手は左手のパーをだすかもしれない。それならチョキをだす必要がある。
 相手がグーをだすことは、あまり考えなくていいだろう。そこまで勝負の枠を広げてしまったら、お互いに思考の泥沼にはまってしまう。最低限の暗黙の了解というものはあるのだ。それを破ってくるとなると、そういう勝負が好きなのだとタイプわけができて、それはそれで思考経路の推理ができる。
 床町茂は、自分ならチョキをだす、と心のうちでつぶやいた。
 パーをだした場合は、負けるか引き分けるかのどちらかで、この手は無謀である。グーをだしたのであれば、勝ちか負けかの五分五分になる。これはこれでおもしろいが、確実性をとって、負けのないチョキのほうを良しとした。ただし、相手がグーを出さないという前提があっての話である。
 手首はどう戦略を練ってくるか。一か八かのグーか? 負けのないチョキか? それとも深読みしてパーを出してくるか?
 床町は、とりあえず手首は自分と同じタイプだと仮定して、チョキを出してくると決めた。
 手首がチョキを出すと予想したのだから、こちらの手は当然グーになるのだが、それは暗黙の了解にひっかかるので出せない。だったら引き分け狙いのチョキしかない。
 一回戦を捨てて相手を探るようにしているのだから、勝ち負けは問題ではない。
 手は決まった。
 手首のほうでも用意ができたのか、しきりに指を広げたり閉じたりしている。
「用意はできたぜ」
 そういってやると、手首がまたカンバンを叩いた。回転。止まる。
『ジャンケン!』
「ポイ!」
 床町茂は瞠目した。
 みずからのチョキと、そして――手首のチョキが空中に火花を散らしたように見えたのだ。
 第一回戦の、それが結果であった。


 床町茂は草むらのなかにわけいった。
 なにか適当な物はないかと探していると、それ以上都合のいいものはないというほどのアイテムを発見してしまった。
 空きビンである。
 ビールビンよりも一回り大きい。ちょうど猫一匹がはいれるくらいの広がりをもったビンだ。もっとも、口は細いので、実際に猫をいれようとすると、動物愛護団体から殴る蹴るのリンチを受けることになるだろう。
「いままで待っててくれたんだ。ついでに、もう少し待っててくれ」
 手首の元に戻ると、床町はそういいながら、今度は道路のほうへ歩いていった。上半身をかがめると、空きビンの細長い口をもって、底のほうをアスファルトに叩きつけた。
「あんたは強い」
 ふりかえって、手首にそう訴える。
 第一回戦は捨てていた。負けてもいいと。結果はもうけもうけの引き分けであった。
 しかし、引き分けた瞬間、体中に電流が走ったようなショックをうけた。理屈ではなく感覚で、手首の強さを知ったのだ。少なくとも自分よりも上のレベルにいる、と。戦略では勝てない。
 床町は右手にもった空きビンを視界の隅で見た。
 底がわれた空きビンは、サメの鋭い顎のように牙をむいていた。これで突けば、人間の皮膚などズタズタに裂けてしまうだろう。
「あんたは、尊敬に値するくらい強い。だが――」
 床町は右手をふりあげた。
 だが、その手には空きビンはなかった。力強く拳を握っているだけだ。
 括目して見よ!
 空きビンははるか頭上にあるではないか。太陽の光をその牙に煌かせながら、垂直に落ちてくる。しかも、回転して。
 もしぶつかれば、その鋭い牙によって肉は裂かれて、骨まで削られるだろう。
 床町は頭上の危機はまるで気にせず、拳を突き上げたまま、
「だが、勝つのはオレだ」
 突き上げた拳に、空きビンが突き刺さらんとした。いままさに!
 床町は拳に軽い衝撃を感じた。
 視線をあげると、拳に空きビンが乗っていた。そう、まさに乗っているというのがふさわしい。空きビンの鋭い牙は、まるで床町の拳をよけるみたいに、その周囲をかこっている。
 括目したうえに瞠目せよ!
 床町の拳は、われたビンのなかにおさまっているのだ。
 あと数ミリずれていれば、間違いなく鋭い牙が拳に突き刺さっていたはずなのに……。
 床町は拳を右にふった。飛んでいったビンが、草むらの影でガチャンと鳴いた。
「普通なら、オレの手はいまごろズタズタのザクロになっていただろう。だが、見ろ」
 床町は手首に手首を突き出した。傷ひとつない。
「これで、運は、オレのほうへ巡ってくる」
 地面から生えた手首が、カンバンをはたいた。回転して、止まる。
『やるじゃないか』
 そして、人差し指をたてて左右にふった。チッチッチという舌打ちの音が聞こえてきそうだった。
 その人差し指が、坂の上方を指差した。
 仰ぎ見ると、自転車に乗った少年が見えた。ペダルから離した足を八の字にして、惰性で坂を下りてくる。あと数十秒で、この前を通過するだろう。
「あの子がどうし……」
 ふりむいて手首にむかった床町は、言葉をそこで飲みこんだ。
 手首のわきに、いつの間にかロケット花火が突き刺さっていたのだ。それも、ほぼ地面と平行になるほどのゆるい傾斜で。
「なにを……」
 床町はみなまでいえなかった。
 手首がいつの間にか手にしていたライターで、ロケット花火に点火するほうが早かったからだ。
 次の瞬間、床町の耳のなかで二種類の音が交錯した。
 坂を下りてくる自転車の音と、ロケット花火の導火線が燃えながら縮む音だ。
「まさか! あの子にあてるつもりか!?」
 と叫んだ床町の股下をロケット花火が飛燕の速度ですっ飛んだ。
 コンマ何秒かの出来事で、いつ発射されたのかわからなかった。
 それでも、なんとか、床町はふりむけた。
 地面スレスレを飛んでいるロケット花火と、少年の乗る自転車がいまにも接触しようとする。
 刹那!
 驚くべきことがおこった。
 否!
 驚くよりもはやく事態はすぎていった。
 なにごともなく。
「なんだと」
 床町は口のなかだけでつぶやいた。うなじの毛が逆立つ。
 自転車に乗った少年は自身におこった驚嘆すべき現象も知らずに坂を下り、やがて見えなくなった。
 ロケット花火の行方は――わからない。どこかそのへんの草むらにでもまぎれこんだのだろう。
 しかし、ロケット花火の描いた軌跡は、いまも目に焼きついている。
 ロケット花火は、なんと自転車をすりぬけたのである。もちろん、幽霊みたいに透過したというわけではない。スポークの隙間をぬって通過したのだ。
 タイヤの内側に放射状にはられた針金。その隙間のなんと狭いことか。しかも、回転しているのだ。その間をぬけさせるという芸当を、手首に見せつけられたことになる。
 床町の体は震えるはじめた。


『これで運がこちらに流れてくる』
 回転がおさまったカンバンには、そう記されていた。
 手首がはたき、また回転――止まった。
『これで運は、プラスマイナスゼロってところだな』
「そのようだな」
 床町は声まで震えていた。
 体も震えている。
 寒いわけではない。
 むろん恐怖からでもない。
 この震えは武者震いであった。
 これほどの強敵に出会えたうれしさよ。
 歓喜が体を震わせる。
 床町は頭上に右手をふりあげた。
 手首がカンバンをはたいた。
『ジャンケン!』
 床町は右手をふりおろしながら叫んだ。
「ポイ!」
 床町茂がジャンケン狂になったのは、十数年前のある出会いがきっかけであった。
 その日、床町茂少年はいつもよりも遅く帰宅した。放課後の掃除当番をひとりでやっていたからだ。罰当番ではなく、ジャンケンに負けて、友達に押しつけられたのであった。
 雑きんがけですっかりふやけた手をポケットにしまったまま、床町少年は自分の家に帰りついた。
 そして、おや? と思った。隣の門前から、トラックが走り去っていったからだ。
 林さんが引っ越してから、丁度一週間。もう次の人がはいってきたのかな。そんなふうなことを思った。
「脱臼するとくせになるというね」
 突然、そんな声がして、床町少年はびっくりして周囲に首を巡らした。
 だれもいない。
「転校も脱臼と同じでね。一度やってしまうとへんな癖がついて、次の転校も意外とはやくやってくるようになる」
 隣家の門の影から、詰め襟の学生服を着た青年があらわれた。黒の制服には見覚えがある。海鳴中学のものだ。
「今度隣に引っ越してきた悠木翼だ。よろしくな」
「は、はじめまして」
「きみ、ここの家の子だろ。とすると、名前は床町くんだね。表札でわかるよ。ところで、ちょっとジャンケンしないかい?」
「え?」
 床町少年がなにかいう前に、悠木翼と名乗った青年が、チョキを突き出してきた。
「ぼくの手はチョキだ」
 その予告に、床町少年はびっくりした。これから出す手をわざわざ教えるとは、それじゃあ絶対に勝てないじゃないか。
 しかし、ビックリ眼になったのがかえってよかった。悠木の左手がパーになったのが見えたのだ。
「プププ」
 床町はこっそり笑った。悠木の悪巧みがわかったのだ。出すべきはチョキだ。
「いくよ。ジャンケンポン!」
 悠木の言葉の勢いに、床町少年は慌ててチョキをだした。
 結果は――引き分けであった。
「あっ。チョキだ。パーを出すと思ったのに」
「ぼくはきみがチョキを出してくるとわかってた」
「え?」
「だけど、グーは出さなかった。暗黙の了解にひっかかるからね」
「暗黙の了解?」
「今度、教えてあげるよ。きみとは気があいそうだ。それよりも」
 といって、悠木青年が床町少年の手をとった。まだチョキの形をしている手を眺めて、
「ふやけているね」
 床町少年は慌てて手を引っ込めた。
「小学校にしては、帰りが遅い。遊んでいたとすれば、今度は帰りが早すぎる。学校に残されていたね。手がふやけているということは、雑きんがけでもしていたのかな」
 床町少年は目を見開いた。ピタリあたっているではないか。
「ビックリすることじゃない。ぼくはみたままの感想をいったまでだ。あたったのはたまたまだよ」
 それと、と悠木青年が続けた。
「ジャンケンに勝つには、洞察力が優れてないといけないからね」
 その日から、床町少年は悠木青年にジャンケン道を伝授されるのだが、その間、ただの一度も勝てた試しがなかった。
 あるとき、町内会でジャンケン大会が行われた。
 ふたりは当然出場した。床町少年にとっては、初の公式戦ではりきっていた。
 ふたりは、順当に決勝に残った。
「手加減はしないよ」
「ぼくもだよ」
 結果は二勝一分け。どちらが勝ったかはいわずもがなだ。
「凄いね」
 試合後、悠木青年がそういった。
 彼の胸には、金メダルがかけられていた。厚紙に金色の折り紙を貼りつけただけの物だが、床町少年の目には燦然と輝いて見えた。
「一回戦、ぼくは勝つつもりだったのに、きみは引き分けにしてしまった。正直、びっくりしたよ」
 悠木青年が胸の金メダルをとった。
「この大会が、一ヶ月先に行われたならば、このメダルはきみの物になっていたかもしれないね」
 そういってから、ポケットのなかにしまった。
「でも、勝ったのはぼくだ」
 かすかに微笑んだ口元には、だれもがつかみたいと思ってつかみえない誇りがにじんでいた。
 そして、どこか、悲しんでいるような。
 悠木青年が引っ越したのは、大会の翌日であった。
 床町少年の元に、たった一枚の便箋を残して。
 そこには次のように書かれていた。
『引越しは脱臼と同じ。一度やってしまうと癖になる』
 床町少年は、それからジャンケンでは負け知らずになった。掃除当番をひとりですることもなくなった。中学、高校、大学と進学し、その間にジャンケンの腕もさらにあげた。悠木青年以外には、だれにも負ける気はしなかった。
 だが、この手首は……。
 この手首は……。
「うう……」
 床町茂は喉の奥からうめきを発した。
 おおきく広げた右手のひらに、汗がにじむ。
 白い手袋をつけた手首も、おおきく手をひろげていた。
 パーとパー。二回戦も引き分けであった。


 嫌な予感が、汗となって額ににじんだ。
 一回戦は負けるつもりで引き分けになった。
 しかし、今度は違う。勝つつもりで出して、そして、引き分けで流されてしまったのだ。天運が確実に手首に流れている。
 脅威という名札をつけた嵐が、床町の脳内で吹き荒れた。
 ふいに、ペナルティーのことが頭に浮かんだ。
 地面に封じ込められ、手首だけが外にでた状態でジャンケンする相手を待つ。そういうペナルティーを想像して、まあいいかと一瞬思ったこともあったが、それはこちらの勝手な推測で、実際は全然べつのペナルティーである可能性が高い。いったいどんなペナルティーなのか。
 額に浮き出た汗が流れて、目にはいってしみる。
 床町は自分を落ち着かせるつもりもあって、ポケットからハンカチを取り出そうとした。
 ポケットの中で、手が違うものふれた。
 取り出して、太陽にかざすと、それは鈍く光った。
 銀メダルであった。厚紙に銀紙を貼りつけただけの。町内会ジャンケン大会の、それが準優勝者におくられた商品であった。
 みるみる汗がひいていく。
「危なく、平常心を失うところだった」
 考えてみれば、手首も勝ちにきていたはずなのだ。それが引き分けになったのだから、天運の流れは五分と五分ではないか。
「次も引き分けなんてことにはしないぜ」
 床町は自信満々で胸をはった。
 手首がカンバンをはたいた。回転。止まる。
『のぞむところだ』
 床町の頭のなかで、すばやく計算が行われた。
 一回戦はチョキ、二回戦はパー、バランスでいけば次はグーだが、それだと素直すぎる。チョキとパーにしぼっていいだろうが、その裏をかいて素直にグーという手もありうる。
 三回戦ともなると、むこうもこちらの手を読んでくる。裏の裏の、そのまた裏をかく必要があった。
 数秒の思考の後、床町の手は決まった。
「ジャンケン!」
 と叫んで、頭上に右腕をふりあげる。
 同時に、手首がカンバンをはたいた。回転するかしないかのうちに止まる。
『ポン!』
 床町の手がふりおろされた。
 形は――パー。
 地面から生えた手首は、白い手袋に包まれた手首は――固く拳を握っていた。グーであった。
「オレの勝ちだぜ」
 あっけないといえば、あっけない結末であった。
 いや、そう思わせられるほど、この瞬間には床町がおおきく優位にたっていたのだ。銀のメダルを手にしたときから。
 カンバンがまわって止まった。
『おみごと』
「たしか、勝てば最高の報酬だったよな」
『そのとおりだ』
「どこにあるんだい?」
『そこだ』
 と、手首が人差し指で、三十センチほど先を指差した。
『掘れ』
 床町は無言でうなずくと、銀メダルをポケットにしまってから、手を土に突っ込んだ。まるで、耕したかのようにやわらかい。数回掘り起こすと、すぐに木箱がでてきた。
「ふん、これか」
 手首を見下ろすと、なにも反応を示していなかった。
 床町は木箱を慎重に取り上げた。土を払ってから開けようとするが、閉じた貝のように微動だにしない。
 よく見ると、鍵穴がついているではないか。
「おい、これ……」
 床町はみなまでいえなかった。
 いう相手がいなかったからだ。
 手首のいた位置には、なにもなかった。痕跡を残すような物はなにも。立っている看板も、古びて黒ずみなにも書かれていなかった。そんなに遠くない昔、ここは花壇だったのかもしれない。その証拠に土もやわらかい。
 手首との勝負は夢か幻か、しかし床町の腕のなかには、蓋のあかない木箱があった。
「これが報酬かい?」
 聞く相手のいない言葉を、床町は地面に落とした。
「いや、違うな。あの勝負こそが報酬だ」
 床町茂はその言葉だけを残して、激闘の地を後にした。


 ノックしてはいると、病室のなかは沈黙が支配していた。
 遅かったようだ。だが、床町に後悔はなかった。もし手首との勝負を放棄して間に合ったとしたら、逆に叱られてしまっただろう。
 ベッドにとりすがってすすり泣いている女性がいた。彼女が知らせてくれたのだ。
 悠木翼が危篤状態にあると。彼が肺の病をわずらっていたと、そのときはじめて知った。
 医者が目礼して退室していった。
「駆けつけてくれたんですね?」
 すすり泣いていた女性が、顔をこちらにむけた。目元が真っ赤で、見ているだけで胸が締めつけられる。
「ありがとうございます。夫はいつもあなたの話をしていました。顔を見てあげてください」
 といって、わきにのく。ヒステリックになるかと思っていたが、拍子抜けするほど冷静だ。覚悟ができていたからか、まだ現実を受け止められていないかのどちらかだろう。
 床町は悠木の顔をのぞきこんだ。十年前よりも、顔つきがずっと精悍になっている。無精ひげはご愛敬だろう。
 そして、口元には微苦笑が浮かんでいた。だれもがつかみたいと思ってつかみえない誇りがにじんでいる。
 なぜ? という疑問がわいた。肺の病でずっと寝たきりだったのに、なぜそんな微苦笑を浮かべられる?
 抱えていた木箱をベッドサイドのテーブルに置いて、床町茂は視線を横にずらした。
 悠木の妻がベッドに取りすがって泣いていたせいだろう。掛け布団がわずかにずれて、病人の細い手が見えた。
 固く拳を握るその手首には、茶色い筋がついていた。目を近づけて子細に観察すると、それは湿った土のようであった。
「こんなに力をいれていたのね」
 床町の視線に気づいた悠木婦人が、夫の拳を広げさせようとした。
「あら? よっぽど強く握っていたのかしら、開かないわ」
 そういう悠木婦人をやんわりと押しのけて、床町茂は悠木の拳に手を置いた。
「あら?」
 悠木婦人が頓狂な声をあげた。
 なにもしないのに、悠木の手が開いたからだ。
 手のひらには、鍵が握られていた。
 床町はそれを手に取り、木箱の穴に挿しこんだ。
 カチリ、と音がした。
 蓋をあけると、箱のなかには……。
「最高の報酬」
 床町茂はそうつぶやき、金のメダルをみずからの首にかけた。

   (完)

 水野昌介{みずのしょうすけ}は陶然とため息をついた。
 カウンターに肘をつき、あごを手のひらにのせて、店主のエプロン姿をながめる。ポニーテールが背中で跳ねているのは、フライパンをふっているためだろう。ときおりうなじがうかがえて、そのたびに水野の心臓がおおきく脈打った。
 店主とふたりきりだということに、水野の口元がゆるんだ。
 大学に近いこともあり、喫茶<慧>は若い学生がよくきていた。店主の木津律子{きづりつこ}とふたりきりになれるというのは、僥倖に近いことだった。
「おまたせしました」
 やわらかい声がして、エプロンのすそがひるがえった。木津律子がこちらをまっすぐにむく。
 目と目があってしまい、水野は照れて顔をさげた。
 エプロンをもりあげる胸に、視線が吸いよせられる。
 大きい。
 頬が熱くなってきた。
「はい、これがスペシャルメニュー」
 といって、木津がカウンターに料理を置いた。
「特製キノコスパゲティです」
 木津の楽しそうな声に、水野は巨乳への欲望視線を切った。
 料理へとむく。
 驚きに目を見張ってしまった。
 パスタの山のうえに、これでもかという大きさのキノコがのっているのだ。「特製キノコスパゲティ」というネーミングから、ある程度は大きいだろうと思ってはいた。しかし、予想を遥かに上まわっていた。
「これはとっておきなの」
 木津がうれしそうに目を細めた。微笑を浮かべてもいる。
 そもそも、木津のほうから「メニューに載せてない特製メニューをだしてあげる」といってきたのだった。いまはふたりきりだから特別に、と。
 ふたりの仲は特別だといわれたようで、水野は有頂天でうなずいたのだった。
「いただきます」
 水野はフォークにパスタをまきつけ、ソースをからめて口に運んだ。
 次の刹那、両目が見開かれた。
 舌の上、いや、口中にひろがる、なんと香ばしい味だろうか。極厚ステーキからにじみ出る肉汁に似ているが、はるかに濃厚だ。淡白な味を想像していたが、これはうれしい裏切り行為であった。
「おいしい!」
 水野は満面に喜色をたたえ、子供のように目を輝かした。
 キノコにも歯をたててみた。やわらかすぎず固すぎず、シコシコとした弾力で楽しませてくれる。先ほどよりも濃厚な味に、口中を支配されてしまうようだった。
 水野はじっくりと味わって食べるつもりだったが、しかし口のほうはあっという間にキノコスパゲティをたいらげてしまった。
「ごちそうさまでした。すごくおいしかったです」
「ありがとう」
 木津が満足気にうなずいて、上半身をカウンターにのり出してきた。鼻腔が柑橘系の香りに刺激される。
「味の秘訣を教えてあげましょうか?」
 木津が下唇をなめ、
「あなただけ特別に」
 と、艶然と微笑む。
「奥の部屋に来てくれたら、キノコスパゲティの秘密、教えてあげる」
 吐息に耳をくすぐられた。電流が背筋を流れ、水野は身震いした。
 誘蛾灯に誘われる蛾のように、ふらふらと木津の背中を追っていく。他の行動は考えられなかった。眼前で揺れるヒップのせいか、頭がくらくらする。
「ここがわたしの寝室」
 といって律子がドアを開くと、フローラル系の香りがまろび出てきた。
「さっ、善は急げ」
 木津に服をむかれていく。実際にはゆっくりした動作なのかもしれないが、頭が脈打っていて、三倍速で動いているように見えた。
 気づいたときには、全裸でベッドに横たわっていた。首をひねって見てみると、ベッドの柱にロープで両手を固定されている。両足も同じ待遇で、×字のハリツケ状態だった。
「あの……」
「──まだ起きてたの?」
 視界が木津の笑顔でうまった。
「睡眠薬の効き目がうすかったみたいね」
「すい、みん、やく?」
「そう。料理にまぜておいたのよ」
 水野は「なぜ?」と訊こうとしたが、舌が痺れてうまくしゃべれなかった。
「約束どおり味の秘密を教えてあげる。あのキノコ自体が重要なの。だけど、入手が困難なのよね」
 木津が肉切り包丁を真っ赤な舌でなめあげた。
「さっきのは、五年前から保存してたのを使ったのよ。使ったら、ちゃんと補充しなきゃね」
 恐怖に縮こまった息子に、木津がギラギラ輝く包丁を近づけた。
 水野はもがいたが、ロープが食いこんだだけだった。
 満面に笑みをたたえた律子が、安心させるみたいにささやいた。
「痛くないようにするから大丈夫。五年前、わたしのを切り取ってくれたモロッコの医師に、ちゃんと教えてもらったんだから」

   (完)

 ゆうに二人は座れるだろう椅子が、大久保雅也{おおくぼまさや}の体を受けとめて苦しげにたわんだ。同時に発生した音は、一流品の調度に囲まれた部屋にはふさわしくなかった。
 たぷん。たぷん。たぷん。
 脂肪でパンパンに膨れあがった大久保の腹が、座ったショックでいくどもバウンドし、レストランの支配人が特別にしつらえた椅子に悲鳴をあげさせる。
 しかし、大久保の正面に座った折原美奈子{おりはらみなこ}は、それを見て笑うことはなかった。
「今日は好きなだけ食べていいわよ。ただし、明日からはまともな食事はとれないと思ってちょうだい。まあ、言ってみれば最後の晩餐かしら」
 美奈子がいたずらっぽく首をかしげると、肩にのった髪がはらりとたれた。玉子型のほっそりとした顔の中で、涼しげな目と流麗な眉がたれさがる。少し薄めの唇が微笑をうかべているのは言わずもがなだ。
「でも、ほんとにおごってもらっていいんですか? それに予約もしてないのに、よく個室がとれましたね」
 大久保が落ちつかなげに、首の埋もれた頭を左右にふった。一拍遅れて腹が追随し、また、たぷんたぷんと水袋のような音がした。
「ここの支配人とはちょっとした知り合いなの。実をいうと今夜の食事はロハなのよ」
 遠慮するつもりの大久保だったが、ロハだと聞いては張りきらざるおえなかった。運ばれてくる料理に、こうばしい匂いを放つ隙もあたえず、胃袋にすべりこませてゆく。
「明日からはダイエットしなくちゃいけないんだから、今のうちにしっかりと食べて、未練を残さないようにしなさいね」
 美奈子のつぶやきも、大久保のブラックホールに吸いこまれた。


 最後の晩餐の日から明けて翌日。大久保の体重は、確実に五キロは増えていた。これからダイエットを始めようという者の出足をくじくには、十二分の効力を発揮するだろう。
 しかし、大久保は意気揚々としていた。
 それもそのはず。
「さあ、始めるわよ。まずは水泳から」
「食事はわたしが用意するものだけを食べるように」
「ジョギングをさぼっては駄目よ」
「サウナスーツをつけて寝るように」
 完全なるマンツーマン指導によるダイエットは、ここ折原ダイエットセンターの専売特許であった。過去、このセンターに入会し、太ったまま出ていった者はいない。
 しかも、大久保はこのセンターの所長である折原美奈子に、直々の指導をうけているのだ。ダイエットの成功は、約束されたようなものだった。
 その自信が崩れたのは、一ヵ月後だった。
「どうして痩せないんですか?」
「一ヵ月では無理よ」
「ここを紹介してくれた奴は、二週間でスマートになったんですよ」
「そう言われてもねえ」
「やっぱり、ダイエットをはじめる前に、あんなに見境なく食べたせいですかね?」
「あなただけじゃなく、入会した全ての人に、最後の晩餐はうけさせてるわ」
「けど……」
「しょうがないわ。特別室を使いましょう」


 特別室の床には、掘り炬燵みたいな窪みが規則的に並べられていた。
 それらのそばには、伴侶のように樽がつきしたがっている。金属で縁取られた大口から、白い粉の小山がのぞいていた。あれはいったいなんなのだろう?
「今日は誰も使ってないみたいね」
 美奈子が窪みのひとつに近づき手招きするのへ、大久保は腰にタオルを巻いた状態で、たぷんたぷんと地響きをおこしながらしたがった。
「タオルを取って、この窪みの中に寝そべるのよ」
「えっ?」
「いいから、言うとおりにして」
 大久保は真っ赤になりながら言われたとおりにしたが、ナニを手で隠してもじもじしている様は、B級ホラーも真っ青かもしれない。
 窪みは見た目より深く、大久保の巨体もすっぽりと納まった。
「こ、これからどうするんですか?」
「いいから黙ってなさい。ああら、よっこらしょっと!」
 美奈子がおよそイメージとかけ離れたかけ声をあげるや、白い粉を満載した樽が倒れこみ、窪みの縁に大口をピタリとつける芸を見せた。一瞬の間もおかず、吐き出された白い粉が大久保の巨体を埋めていく。
 いや、よく見ると、それは粉というよりも粒であった。
「なんですか、これ?」
 砂風呂のごとく、山の端から顔を出した大久保は、窪みの縁から見下ろす美奈子に訊いてみた。
「企業秘密よ。なんたってわがセンターの誇る最終手段なんですからね」
 にっこり微笑む美奈子に、大久保は満足顔をした。笑顔の下に潜む、絶対の自信を見てとったからだ。この人に任せておけば大丈夫。太ったまま脱会した者はいない。
 二時間後、しかし大久保は後悔した。
「せ、先生……」
「はあひ?」
 ファッション雑誌から顔をあげた美奈子の口には、せんべいがくわえられていた。
 ばりん。
「なあに?」
「気分が悪いんですけど……」
「軽い脱水症状ね。しかたないわよ。あなたの体の中の余分なモノを、急速にとりのぞいてるとこだから。あと十分くらい我慢すれば、ほっそりスマートよ」
「ほんとですかあ?」
 こんもりと腹の形にもりあがった白い粒の山は、しかし低くはなっていなかった。むしろ、水気を含んだためか、二時間前よりも膨らんでいる。
「ほら、十分たったわよ。立ち上がってごらんなさい」
 大久保が身をよじり、ふらふらになりながらも立あちがると、体から白い粒がねっとりと落ちていった。
「おお!」
 自分の体を見下ろした大久保は、そこに神の奇跡を見た。
 首があり、鎖骨が見え、あばらが出ている。
「ほらね、痩せてるでしょ」
「はい! ありがとうございます、先生!」
「見えてるわよ」
 慌てて脱衣場に戻っていく大久保だった。
 彼の引き締まった尻を見ながら、美奈子がおもむろに携帯電話をとりだした。プッシュしたナンバーは、最後の晩餐に使ったレストランのものであった。
「──支配人さん。わたしです。折原です」
「ああ、助かりましたよ、折原さん。もう切れてしまいましてねえ。うちは味でうっておりますから」
「安心してください。たった今、たっぷりとうま味を吸いこんだ塩が、大量に手にはいりましたから」

   (完)

 日本人の祖先については諸説あるが、真実はおっぱい星からきた異星人なのであった。
 彼らは地球に降り立つや、失意のどん底に突き落とされた。膝を折り、涙はらはら、地面に染みをつくってしまうほどに。
 心がポッキリと音をたてたのもむべなるかな。安住の地を求めて辿りついたのに、緑の星にはおっぱいが存在しなかったのだ。
 だが、彼らのおっぱい魂には、不屈の精神が宿っていた。おっぱい製造機ともいうべき、ワンダフル装置を完成させたのである。
 装置からのびる砲身が、地面にむいた。シビビビビと、不思議光線が照射される。命中した箇所が隆起し、巨大な岩山ができた。おっぱい製造機が、ドリルで岩山を削りながら、中心部へと進んでいく。
 そうして、異性人たちが見守るなか、岩山から宇宙的人工皮膚がにじみだし、あれよあれよと、見上げるほどのおっぱいが完成した。
 ぷるるんと震えたことによって、でっかいトカゲが絶滅したが、随喜の涙を流すおっぱい星人にとって、そんなことは些事だった。
 あれから何万年たったのか。
 異星人たちは、みずからの出自を忘れてしまった。巨大おっぱいも、皮膚保持機構の不具合でスリープ状態となり、岩山部分がむき出しとなった。
 たったいま、霊峰富士がぷるるんおっぱいと化したのは、だから、長い長い眠りから覚めただけなのだった。

   (完)

 夏目雄太{なつめゆうた}は体を硬直させてしまった。
 天井近くの壁に、黒点が光を反射しているのを発見したからだった。
 腹の虫が自然と鳴る。
「ゆ~ちゃ~ん」
 キッチンから、恵の呼ぶ声が聞こえた。腰砕けになりそうな間延びした声に、しかし雄太はこたえることなどできなかった。
 壁の黒点が動いたのだった。
 躊躇したのは短い時間だ。
 黒点の正体を看破するや、雄太は床を転がり、壁際に置かれたスプレー缶を手にとった。起きあがりざま、ノズルの狙いをさだめる。
 そのスピードは、まさに神速。
 雄太は舌なめずりしながら、黒点を睨みつけた。
 テカテカ輝く黒い悪鬼は、触覚だけをヒクヒクと、まるでこちらの様子をうかがっているようだった。
 ゴキブリである。
 雄太はすべるように距離をつめ、殺虫剤のボタンを押した。
 毒液が放射状に散布される。
 死のシャワーがゴキブリにふりかかった。
「なに!?」
 雄太の驚愕の叫びもむべなるかな。
 なにもない壁に、水滴だけが付着していたのだ。
 驚くべし。
 油ぎった六本の足に、残像を見せられたのであった。
「どこだ!?」
 カサカサカサカサ。
 音の発進源は、背後の壁からだった。
 ふり返りざまの一発。
 だが、そこにゴキブリの姿はなかった。
 カンがうしろだと告げてきた。
 再度ふり返る寸前、視界の端に恵の姿が映った。
 刹那、瞳が泳いだ。
 やっとふり返ったとき、反撃に転じたゴキブリが真っ正面にいた。
 羽を振動させ、空中を滑空してくる。
 殺虫剤を握る右手は反応していた。
 反応してはいたが、間にあいそうになかった。
 雄太の胸中に諦観がよぎった。
「ゆ~ちゃ~ん」
 シュー!
 という軽い音をさせて、毒液が吹きだした。
 雄太は会心の笑みを浮かべたまま、仰向けに倒れこんだ。
 天井を背景にしたゴキブリが、もがく余裕もなく落下してくる。
 軽い音をさせ、床に落ちた。
 改良に改良をかさねた殺虫剤は、必殺の意義を知らしめてくれた。
「だいじょうぶ~、ゆ~ちゃ~ん?」
 顔を覗きこんできた恵に、雄太は最上の笑みをかえしてやった。
 彼女の声によって腰砕けになり、下からゴキブリを狙える絶妙な態勢になったのである。笑顔くらい安いものだった。
「お前と殺虫剤のおかげだよ」
 恵はいわれたことを理解したのかどうか、ゴキブリを指でつまんだ。とまどうことなく、半分にちぎる。
「あ~んして」
 雄太は口をあけた。
 ゴキブリの頭のほうがはいってきた。
 恵はというと、ちゃっかりとやわらかい腹のほうを味わっている。
「殺虫剤の改良もいいが、食料問題をなんとかしてほしいもんだ」
 雄太は殺虫剤を握りしめたまま、久しぶりのタンパク源を飲みこんだ。

   (完)