短編小説「ポルカホリデー」
興奮で額に汗がにじみ、鼻息も荒くなった。
「ふんが~、ふんが~」
わたしの鼻息は、マタドールに挑む猛牛よりも、なお猛々しかった。
それも、むべなるかな。
眼前には、白い肌に密着した深紅のブラジャーがあるのだ。バラをかたどった刺繍がとても優雅で、男心をくすぐってくれる。
わたしは慌てて頭をふって、取りついた興奮を追いはらった。ブラに吸いついていた視界が、ゆっくりと元に戻っていく。
ブラの主が見えた。まなじりをさげ、せつなそうな表情で眠っているのは、まがうことなく鬼瓦則武{おにがわらのりたけ}であった。名前は男っぽいが、性別もやっぱり男だ。
酒に酔って寝転んだ同僚が、真っ赤なブラをつけている。しかも、ハーフカップだ。
心くつろぐはずのわが家に、なぜこんなシュールな光景が出現しているのか。理由はまったくカンタンだった。事のおこりは、鬼瓦を自宅に招いたことだった。お互い独身なので気楽なものだ。部屋に冷房を効かし、おつまみを作る。ふたりっきりの酒盛りは、ひとしきり盛りあがった。
ピークをすぎたころ、わたしは携帯電話を取りだした。
「機種変更して一日たつが、まだ慣れてないんだ。お前はどうだ? 鬼瓦」
驚くことに、鬼瓦も同じ日に同じ機種に変更していた。申しあわせたわけではなく、まったくの偶然だった。
「ぼくも設定とか全然かえてな~い」
などと、とりとめもなく話しているうちに、鬼瓦がうつらうつら舟をこぎはじめ、ついには寝転がってしまった。
服を着たままだと寝苦しかろうと、わたしは同僚のネクタイに手をかけた。ゆるめてやるつもりだったが、どうやらわたしも酔いがまわっていたらしい。手元がおぼつかない。
胸のうえで手をすべらせたとき、シャツごしに、ほんのわずかな抵抗を感じた。気のせいといってしまえばそれまでの、かすかなデコボコ。
そのとき、脳内で発生したものがあった。
スズメの涙ほどの好奇心と、小さじ一杯の探究心と、大ジョックからあふれるほどの悪ふざけ。
気づいたら、鬼瓦の上半身を裸にひんむいていた。
チャッラララ、チャッラララ。
頭のなかで、「トワイライトゾーン」のテーマソングが奏でられていた。新しい携帯電話の着信音はこれにしようと、現実逃避のように考えてしまう。
「あ、そうだ。携帯だ」
わたしは畳に転がる携帯電話を手にとった。脳による行動ではなく、脊椎反射であった。あるいは、血中で暴れるアルコールの所業か。
わたしは携帯電話を両手で構えた。脇もしっかりとしめ、シャッターボタンを押す。ぷろぽろぽ~ん、と存外におおきな音がした。
すわ! 起きるか!?
とっさに猫足立ちで構えたが、鬼瓦は安らかな寝息をたてているだけだった。
わたしは安堵のため息をもらした。撮った画像を確認しながら、首をもむ。熱い。予想以上に、酔いがまわっているようだった。
テーブルの上には、ビールだけでなくウイスキーや日本酒もあった。紅茶や牛乳まであるのは、混ぜて飲みくらべていたからだ。
「そういえば……」
寝ている同僚は、上半身は見えているが、下半身はテーブルの下だった。もしかしてと、いけない想像をしてしまう。
「いやいやいや」
男がブラをつけるのはたしかに異常だが、つけてつけられないことはない。だが、下は違う。男には、心臓と同じおおきさの物体がついているのだ。セクスィーなパンツでは、とてもではないが隠し切れない。
確かめなければならなかった。わたしの好奇心のためではなく、同僚の尊厳のためにだ。
わたしは邪魔になるテーブルの両端をつかみ、部屋の隅に移動しようとした。ビンやグラスは、めんどうくさいのでそのままだ。
「うお」
脚がもつれた。斜めになったテーブルから、ビンやグラスがすべり落ちる。ふたをしていたり、飲みきっていたりして、被害が小さかったのが幸いだった。
いまの騒ぎで、鬼瓦が起きていないかと目をあげて、
「っ!」
声をあげそうになったわたしは、慌てて自分の口をおさえた。
鬼瓦の上半身が濡れていた。ビールや紅茶ならまだしも、こぼれていたのは牛乳だった。深紅のブラに、純白の液体。そのコントラストがエロチックで、わたしはしばし呆然と見とれてしまった。
ぷろぽろぽ~ん。
ぷろぽろぽ~ん。
ぷろぽろぽ~ん。
軽やかな電子音が連続で鳴った。
我にかえったときには、携帯電話をかまえ、様々なアングルで激写している最中だった。
わたしは急いで牛乳をふいた。肌にかかったぶんは問題ないが、ブラジャーの一部が変色してしまっていた。
これは知らないことにするしかない。
わたしはそう決心し、同僚の尊厳を守るため、ベルトに手をかけた。ためらいなく、淀みなく、躊躇も捨てて、拘束をといてゆく。
ファスナーをおろし、ズボンをはだけた。
「ぐ」
驚愕の叫びが、喉につまった。
男物をはいているなら、よしだった。セクスィーな下着がでてきた場合の覚悟もあった。
しかし、これは予想外。「どんな下着なのか?」という問題とは、まったく次元が異なっていた。
正解を先にいってしまうと、鬼瓦がはいていたのは、ブラとおそろいであろう深紅のパンツだった。バラをかたどった刺繍が、洗練された豪華さを演出している。モノはギリギリはみでていなかった。同僚の心臓は、平均よりも小さいのかもしれない。
わたしが愕然と目をむいてしまったのは、そんなことではなかった。
鬼瓦則武は、なんと、パンストをはいていたのだった。光沢のあるベージュが、電灯の光をうけて、きらびやかに輝いている。
同僚の足元を見ると、靴下もちゃんとはいている。暑かったろう、と同情心が芽生えてくる。彼の美意識を理解することはできないが、ここまでされると認めてやるしかない。
「うん、あっぱれだ」
わたしはひとりでうなずいた。まだアルコールに浸っていない分の思考が、さっきからしきりに警報をならしてくる。
ぷろぽろぽ~ん。
ぷろぽろぽ~ん。
ああ、違う。これは携帯電話のシャッター音だ。なんだか夢なのか現実なのか、はっきりしなくなってきた。
「あ~」
かすんできた目に、パンストごしのパンツがうつった。誘蛾灯にまねきよせられる虫のごとく、わたしはなんの迷いもなく、鼻先を股間にセットした。
思いっきり匂いを吸いこむ。
「ふんぐう!」
鼻腔にするどい針が突き刺さった。一本ではなく何十本と。わたしはあまりの痛覚に、床上でもんどりうった。
針が刺さったというのは、もちろん錯覚だった。それぐらい、刺激的で攻撃的で破壊的な臭いだということだ。
おかげで目がさめた。
「危なかった」
わたしは流れた涙をふきながら、身をおこそうとした。途端、すとんと腰が落ちた。鬼瓦の上に、しなだれかかってしまう。
「う~ん」
重さのためだろう。鬼瓦が小さくうめいた。
ま、まずい!
わたしはとにかく同僚の上からどこうとしたが、力がはいらなかった。思うように動けないが、それでもなんとか体をずらしていく。
酔いすぎた──というわけではない。恐るべきことに、手足が痺れはじめている。酔いとは別種の、これはなにかの中毒か!?
思い当たることが、ひとつあった。鬼瓦の股間だ。芳醇を突きぬけて、破壊へと到達した臭い。きっと正体不明の気体が、にじみ出ているに違いない。
視界がせばまってきた。いよいよガスがまわってきたのか。
「だが、しかし」
いま、目を閉じるわけにはいかない。眠るのは、同僚に服を着せてからだった。このまま気を失ってしまえば、鬼瓦になにかしたみたいではないか。
わたしは朧に霞む思考の中で、なんとか打開策を見つけだそうとした。
どうする、どうする、どうする……。
鬼瓦が目を覚ました。
寝ぼけているのか、ぼんやり左右を見渡している。わたしと目があって状況を理解したのか、
「おはよう」
と、目をこすった。窓からはいってくる朝日が、まぶしいのかもしれない。
わたしも「おはよう」と答え、ティーカップから紅茶を一口すすった。
「あ~、飲み物は紅茶でいいかな」
紅茶をいれてやり、さもいま思いついたように、
「そうだ、牛乳いれてみるか。おっと!」
牛乳パックの口をあけてから、わざと転んだ。飛び散った牛乳が、鬼瓦のワイシャツにひっかかる。
「悪い。これでふいてくれ」
差しだしたタオルを鬼瓦が受けとり、染みこんだ液体を叩いてふく。これで、ブラの変色もごまかせるだろう。
わたしは休日なのをいいことに、綿シャツとトランクスという情けない姿で朝食をとった。いっしょに食べている鬼瓦が、わたしの右足を不思議そうに見る。
「すねが青くなってるけど、どうしたの?」
もっともな質問に対して、わたしは乾いた笑みを浮かべながら答えた。
「ちょっと柱にぶつけてね」
ウソじゃない。
あらんかぎりの力をふりしぼり、右足で柱を蹴ったのだ。うずく痛みにより、わたしは意識を失うことなく、中毒が回復するまで耐えたのだった。復調さえしてしまえば、鬼瓦の衣服を整えるくらい簡単だった。
足の痛みがまだひいておらず、昨夜から一睡もしていないのはご愛嬌だ。
朝食がすむと、鬼瓦は泊めてもらった礼をいって帰っていった。
五分間たっぷり時間をおいてから、わたしはおおきくため息をついた。
「さて」
わたしはあえて声をだし、携帯電話のボタンを押した。一夜あけた後の冷静な目で、昨夜の衝撃写真を観賞するためだった。
わたしは眉間にしわをよせた。
写真が一枚も記録されていなかったのだ。
刹那、脳内で電光が閃いた。
「まずい! 待て! 鬼瓦~!」
わたしはドアを蹴破って跳びだし、パンツ姿のまま疾駆した。
同じ種類で、どちらも新品。
すりかわってしまった携帯電話を追って、走る走る。
「どこだ~!? 鬼瓦~!?」
絶叫が青空に響きわたった。
(完)
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