短編小説「妖精はここにいる」

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 満月を見上げたぼくは、驚きで息を飲んだ。小学六年生の小さな体が、興奮でおこりのように震えてしまう。
 蝶々のような羽をはばたかせて、妖精が飛んでいたのである。
 青白い月光幕に、墨で描いたような妖精のシルエットは、胸をかすかに膨らませており、遠目にも女性と知れた。巻き散らかされるリンプンの軌跡が、はかなげにまたたきながら波打っている。
 彼女はフェアリーと呼ばれる妖精に間違いない。会えるとしたら、それは欧州を置いてないと思っていたが、まさか日本の、それも平凡な住宅地で遭遇できるとは、なんという幸運だろうか。
「いた。いたんだ」
 うわずった声は、思ったより大きかった。前を歩いていた友人たちが、気づいて振り返ったほどだ。ふたりのうち、片方が浴衣姿なのは、夏祭りの帰りのためである。
「なになに、なにがいたって?」
「フェアリーだよ、フェアリー! 羽のはえた妖精!」
 ぼくは興奮気味に、空中でスキップしているフェアリーを指さした。
 ふと、蝶々じゃん、と一蹴される不安にかられた。彼女は細い手足を振りまわしているうえに、距離もあるので、見間違えやすい。フェアリーなど空想上の生き物だという固定観念にかられていると、虫に見えないこともないのである。
「なんもないじゃん」
 浴衣姿の友人は、予想外の言葉を口にした。虫というならまだしも、いないとはどういうつもりだ。
「いるって、あそこ! よく見てよ、いるよ。虫でもないよ」
 そういって、ぼくが指さした先には、たしかにフェアリーが飛んでいる。
「しつっこいなあ。いるわけないじゃん。なに? 妖精なんか信じてんの? ばっかじゃないか」
 浴衣姿の罵りは、ぼくの内なるマグマを煮えたぎらせた。突き出した右の拳は、友人の嫌みったらしくゆがんだ頬に食い込んだ。
 よろめいた浴衣姿だったが、ブロック塀に手をついて体をささえ、
「なにすんだよ!」
 と、歯をむきだしにしてむかってきた。
 鼻面をなぐられたぼくは、ふんばりがきかず、あおむけに倒れてしまった。
「妖精なんていねんだよ! ばあか!」
 馬乗りで殴られた。身につけた衣が汚れるなと、ぼんやりと思った。
 もうひとりの友人は、ニヤニヤ笑っているだけである。
「いなんいんだよ、妖精なんて」
 馬乗りになった同級生は、そういいながらぼくを殴りつづけたが、抵抗がなくなったと気づくや、舌打ちを残して立ち上がった。
「おい、行こうぜ」
 もうひとりと連れ立って、その場を去っていく。
 ぼくは立ち上がると、衣の痛んだ箇所をなでながら、フェアリーを目で追った。
 彼女はリンプンの尾を引きながら遠ざかっていた。
 友人ふたりの背も小さくなっていくが、ぼくが追ったのは、羽のはえた妖精のほうだった。
「妖精がいないだって? 冗談じゃない」
 地を蹴って駆けだしたときには、友人たちの存在など記憶から葬り去っていた。
 宙に舞うフェアリーを見上げながら全力疾走。T字路を右に、十字路を左に曲がる。道ともいえない細い路地を抜け、犬が吠える庭を横切りもした。
 小さかったフェアリーが、徐々におおきくなってくる。手足を楽しそうに振っているのがよくわかった。
 まっすぐ飛ばれてしまえば簡単に離されていたに違いないが、彼女は上下に揺れて、遊びながら飛んでいる。空中と地上のハンディは、それで相殺されていた。
 いずれ追いつけると確信を強めたが、
「ぜは、ぜは、ぜは、ぜは」
 肺が悲鳴をあげていた。
 ぼくは前に進もうとしたのだが、小学六年生の小さな体はいうことをきいてくれず、気ばかりあせった結果、両脚がもつれ、もんどりうって転がってしまった。
 間をおかず立ち上がったが、膝から崩れた。転倒したときに、負傷してしまったらしい。動きがとれず、空を仰いだまま歯軋りする。
 フェアリーのシルエットは、夜の闇へとにじで消えてしまった。
「くっそ!」
 アスファルトを叩いた八つ当たりの拳に、輝くリンプンが降りそそいだ。


「はっ、はっ、はっ」
 ぼくは息をはずませながら走った。
 フェアリーと再会したならば、地の果てまでも追っていけるように、脚力を鍛えているのである。
 学校指定のジャージに包まれた体躯は、すでに小学生のそれではない。衣替えを何度か経て、邂逅の日からは、すでに三年が経過している
 千を越える日々は、小瓶に保存したリンプンを眺めて慰めた。
「あれ?」
 だから、夜空を何気なく見上げ、そこにフェアリーを発見したときには、あまりのあっけない再会に、幻覚だと思ったほどだ。
「本物か」
 目をこすってあらためて確認しても、華やかな紋様の羽をはばたかせて空を飛んでいるのは、間違いなくフェアリーであった。リンプンで描かれる軌跡は、見飽きた夜空に神秘のベールをひいていた。
 今回は地上に近かった。街灯の光にあおられ、姿がはっきりと見えている。掌サイズを想像していたが、実際には人間の女性と同じ背丈だった。服も既製品であり、羽はどうやってだしているのかと、疑問が浮かぶ。
 顔もぼんやりと見えた。細面で目じりがたれており、空中をスキップするにふさわしい、楽しそうな笑顔を浮かべている。
 ぼくはフェアリーを追うため地を蹴った。走りこみの成果がでて、手足がスムーズに動いてくれる。月光に照らされた彼女を見失わないですみそうだった。
 フェアリーがぼく以外に見えないカラクリは、すでに看破している。リンプンに鏡のような性質があると、毎日の観察でわかったのだ。光を屈折させて、人間たちから自分の姿を隠している。これも擬態といえるだろう。
 フェアリーとの距離がつまってきた。
「でも、どうしよう……」
 地上に貼りついているぼくでは、空中を舞う彼女に接触できそうになかった。ジャンプして届く距離でもなく、足場をつくる時間の余裕もない。
「待つか」
 走りながら考えた結果だった。フェアリーが羽を休めるまで、追い続ける覚悟を決めた。持久力がものを──否、脚を動かすのは執念だ。
 想い人との勝負は、しかし、あっけなく幕を閉じた。執念に火をつける前に、フェアリーが高度を下げてきたのだ。民家の屋根すれすれまで、降下してきている。
 行く手には林があった。ひと目にふれず羽を休めるには、もってこいの場所である。
 風でゆれる枝葉のなかに、フェアリーが埋もれるように消えていった。
 ぼくはフェンスの手前で立ちどまった。
 私有地らしいので遠慮したわけでも、夜の林に恐怖したわけでもなく、たんに入り口を探しているだけだ。
 視線を巡らせて数秒だけ探したが、結局見つからず、ぼくはフェンスに飛びついた。乗りこえるときに有刺鉄線をつかんでしまったが、気にせず地面に着地する。
 フェアリーが林にはいったときの方向を考慮して、あてずっぽうで走り出した。
 カンがあたったと自信が持てたのは、木々に付着したリンプンを発見したからだ。差し込む月光に輝き、まるで道しるべのようでああった。
 リンプンに誘われるようにして、林の奥へむかって進むと、おぼろげな光がまたたくのが見えてきた。
 ぼくは歩をゆるめ、慎重な足取りで、光へ近づいていった。
 そこは、ひらけた場所だった。近づくにつれ、またたく光の正体に見当がついてきた。フェアリーの羽がひらいたり閉じたりしているに違いない。
 幹から顔を半分だけだし、そっとフェアリーの様子をうかがう。降りそそぐ月光で、彼女の姿がよく見えた。
「あ……」
 喉から飛び出しかけた叫びをかみ殺した。
 フェアリーはうつ伏せに倒れていた。それでもスキップをやめず、だだをこねる子供のように、両手両足を地面にぶつけている。
 いや、それはたんなる痙攣にすぎなかった。楽しそうなスキップに見えたのは、空中を飛んでいるという非現実からなる幻だった。
 ぼくは自嘲で唇をゆがめた。否定するなら、そんなどうでもいいことではなく、もっと重要な事実を否定するべきではないのか。
 横たわって痙攣しているのは、フェアリーではなく、たんなる人間の死体なのだ。顔や手、スカートからのぞく脚が、紙のように真っ白になっているのが、その証拠。生きている者の体色ではありえない。
 しかし、リンプンをふりまく羽は、ゆったりと羽ばたいている。飛ぶための動きではなく、くつろぐためのゆったりした動作である。
 死体の背中に取りつき、優雅に羽を上下させているのは、ぷっくりした胴体の巨大な蛾だった。
 ふいに、脳内に映像が浮かんできた。
 家路を急ぐ女性の上空に、赤ん坊くらいおおきい蛾が迫ってくる。リンプンの効果によって、だれにも目撃できない昆虫は、女性の背中にとりつき、そうして、連れ去っていくのだ。目的はおそらく捕食である。死体の体色が白くなっていることから、体液を吸いだしていると推測できた。
 連れ去られる女性も、リンプンによって人間の目から隠されている。例外であるぼくも、フェアリーに会いたいという欲求によって、目が曇っていた。羽の動きが蛾の胴体を隠していたのと、暗かったせいもある。
 だが、停止したいま、蛾の姿がはっきり見える。
 羽のはえた妖精ではなく、死体に取りついた蛾。
 前回のときも、この巨大蛾は人間をとらえており、それを目撃したぼくは、てっきりフェアリーだと思い込んだのだ。
 失意でめまいがして、うしろへよろけてしまった。かかとの下で、小枝の折れる音がした。
 巨大蛾の頭からのびる触覚が、ひくひくと波打った。
 降りそそぐ月光に逆らうかのように、巨大蛾が飛び上がった。空中で反転し、丸いふたつの目がこちらをむく。
 見つかった。捕まれば、体液を吸いだされてしまう。
 ぼくは踵を返して、一目散に走り出した。
 自慢の脚は、しかし木々が邪魔してトップスピードにいたれなかった。
 それは巨大蛾も同じだけのはず。
 ぼくは確認して安心するために、首だけをふりあおがせた。
 背筋が凍った。
 巨大蛾は木々を物ともせず、ひらりひらりと舞っていた。輝くリンプンが、木々のあいだを縫うようにのびている。
 そうだった。ここは蛾の住処なのである。どこに木が生えているのか、熟知しているに違いない。一流のレーサーがここしかないというラインをなぞるように、巨大蛾もベストの道筋を飛来してくる。
「くそっ!」
 いまの感情をそのまま吐露した。
 左足で思いっきり地を蹴った。ぐんと前に進む。
 あげようとした右足が、木の根にひっかかった。勢いがついたまま、もんどり打って倒れる。
 直後、ずん、と背中に柔らかくて重いものが乗ってきた。
「うわ!」
 悲鳴をあげた口に、リンプンが吸い込まれる。
 ぼんのくぼに、管のようなものが刺さった。体液が逆流していく。ときおり、ジュルジュルという音も聞こえた。
 蝶が花の蜜を吸うように、こうやって人間の体液を摂取していたのだ。
 手足が痙攣しはじめた。つかまれて空中にいたとすれば、スキップしているように見られるだろう。
 顔の筋肉も弛緩しはじめている。体液を吸いだされるとともに、痛みを感じなくさせる液体を注入され、それの副作用だろう。
 ああ、これは終わったなと理解できた。


 巨大蛾がぶるりと痙攣した。全身から力が抜け、羽も地面へついてしまう。
 いくつかあるのぞき窓のひとつから、様子を観察していたぼくは、巨大蛾が死んだことを確認した。
 出入り口は背中にある。皮膚のつなぎ目をひらき、シャツとジャージのすそをめくる。
 蛾の白い腹が見えた。
「ああ、重いったら」
 巨大蛾の体と、衣の隙間から、ぼくはようやっと這い出した。
 外から見ると、元人間である衣は、体液をすべて抜き取られ、予想通り死んでいた。
 いや、ぼくが襲って中にもぐりこんだときに、すでに死んでいるともいえるが、心臓が動いて呼吸をしていたのだから、生きていたといえなくもない。
「こいつ!」
 巨大蛾を蹴っ飛ばす。ぼくよりもはるかにおおきなな蛾は、びくともしなかった。
 しかし、ぷっくり膨れた腹の末端から、緑色の液体が滲んでいた。
 衣の濁った血が、毒になったのだろう。いい気味だ。フェアリーがいるように思い込ませた罪だ。
 同じ妖精でも、羽のはえている妖精は気品がある。ぜひ、妻として娶りたかったのに、たんなる昆虫だったとは。
 ぼくはため息をひとつつくと、人間社会にもぐりこむための新しい衣を求めて、月光の降りそそぐなかを歩き出したのだった。

   (完)

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このページは、浅川こうすけが2007年4月 4日 00:00に書いたブログ記事です。

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