短編小説「真昼の激闘」
夏目雄太{なつめゆうた}は体を硬直させてしまった。
天井近くの壁に、黒点が光を反射しているのを発見したからだった。
腹の虫が自然と鳴る。
「ゆ~ちゃ~ん」
キッチンから、恵の呼ぶ声が聞こえた。腰砕けになりそうな間延びした声に、しかし雄太はこたえることなどできなかった。
壁の黒点が動いたのだった。
躊躇したのは短い時間だ。
黒点の正体を看破するや、雄太は床を転がり、壁際に置かれたスプレー缶を手にとった。起きあがりざま、ノズルの狙いをさだめる。
そのスピードは、まさに神速。
雄太は舌なめずりしながら、黒点を睨みつけた。
テカテカ輝く黒い悪鬼は、触覚だけをヒクヒクと、まるでこちらの様子をうかがっているようだった。
ゴキブリである。
雄太はすべるように距離をつめ、殺虫剤のボタンを押した。
毒液が放射状に散布される。
死のシャワーがゴキブリにふりかかった。
「なに!?」
雄太の驚愕の叫びもむべなるかな。
なにもない壁に、水滴だけが付着していたのだ。
驚くべし。
油ぎった六本の足に、残像を見せられたのであった。
「どこだ!?」
カサカサカサカサ。
音の発進源は、背後の壁からだった。
ふり返りざまの一発。
だが、そこにゴキブリの姿はなかった。
カンがうしろだと告げてきた。
再度ふり返る寸前、視界の端に恵の姿が映った。
刹那、瞳が泳いだ。
やっとふり返ったとき、反撃に転じたゴキブリが真っ正面にいた。
羽を振動させ、空中を滑空してくる。
殺虫剤を握る右手は反応していた。
反応してはいたが、間にあいそうになかった。
雄太の胸中に諦観がよぎった。
「ゆ~ちゃ~ん」
シュー!
という軽い音をさせて、毒液が吹きだした。
雄太は会心の笑みを浮かべたまま、仰向けに倒れこんだ。
天井を背景にしたゴキブリが、もがく余裕もなく落下してくる。
軽い音をさせ、床に落ちた。
改良に改良をかさねた殺虫剤は、必殺の意義を知らしめてくれた。
「だいじょうぶ~、ゆ~ちゃ~ん?」
顔を覗きこんできた恵に、雄太は最上の笑みをかえしてやった。
彼女の声によって腰砕けになり、下からゴキブリを狙える絶妙な態勢になったのである。笑顔くらい安いものだった。
「お前と殺虫剤のおかげだよ」
恵はいわれたことを理解したのかどうか、ゴキブリを指でつまんだ。とまどうことなく、半分にちぎる。
「あ~んして」
雄太は口をあけた。
ゴキブリの頭のほうがはいってきた。
恵はというと、ちゃっかりとやわらかい腹のほうを味わっている。
「殺虫剤の改良もいいが、食料問題をなんとかしてほしいもんだ」
雄太は殺虫剤を握りしめたまま、久しぶりのタンパク源を飲みこんだ。
(完)
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