短編小説「みたまま」

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 坂を下るタクシーを見送りながら、床町茂{とこまちしげる}は慙愧の念に心を痛めた。
 こんな気持ちになったのは、二十ニ年間生きてきてはじめてのことだった。
 見上げれば、白い建物が小さく見える。あそこに行くために、ここまでタクシーを飛ばしてきたのだ。
 小高い山の頂上に鎮座ます白い建物、それは病院であった。
 床町はなんとか視線を引き剥がし、道路脇の草むらに足をふみいれた。靴底に感じる感触が、アスファルトの硬さから土のやわらかさにかわった瞬間、世界も同時に変形したような気がしたが、それは気のせいであろう。
 伸び放題の雑草は、その周辺だけは侵食していなかった。いや、逆か。雑草がその周辺だけ侵食されているのだ。
 タクシーのなか、流れる窓外の景色のなかから「それ」を確認できたのは、偶然ではないという気がした。同好の士なのだ。ひかれ会って当然であった。
 床町は「それ」の手前で足をとめた。カンバンが立てられている。小学校の花壇などで、花の名前を書いた小さなカンバンがあるが、あれと同種のように思える。
 そして、カンバンには、こう記されていた。
『ジャンケン勝負!』
 相手はどこだと探す必要はない。カンバンの根元にいる。白い手袋をはめた右手首が、地面から突き出ているのだ。
 床町茂は微苦笑を浮かべた。
 地面から突き出ている手首よりも、カンバンのほうに心動かされている自分がおかしかったのだ。
 正確には、カンバンに書かれた「ジャンケン勝負」の文字に強くひかれていた。「それ」こそが重要であった。地面からはえた手首。そんなものはジャンケンの相手でしかない。
 ジャンケン勝負に命をかける。他の事象はすべて些事だ。
 そんな自分がバカみたいに思え、また苦々しくもあり、浮かべた微苦笑。
 しかし、その微苦笑には、だれもがつかみたいと思ってつかみえない誇りがにじんでいた。


「その勝負、うけた」
 床町茂は手首を見下ろしながら、そう宣言した。
 見下ろされた手首が、スナップをきかせてカンバンをはたいた。
 まるでヘリコプターのプロペラのようにカンバンがクルクルと回転して、そして止まった。
『OK! 三回戦勝負だ』
 床町は内心で舌を巻いた。この手首、相当できるとふんだのだ。
 一本勝負なら、運の要素が非常に強い。もちろん戦術はもちいるが、素人相手でもないかぎり、勝率にはあまり影響してこない。これでは、勝負の面白味にかける。
 そして、三本勝負なら泥沼になってしまう。なぜなら、先に三勝したほうが勝ちというルールなので、引き分けが続けば永久に勝負は終わらないことになるからだ。
 引き分けがそんなに続くわけがないというのは、素人考えだ。運と戦術を同時にもちいることを好む玄人同士がやりあった場合、引き分ける確率はグンとはねあがる。
 一九九四年のことだ。日本の広島市でこんな勝負が行われた。綴喜商店街{つづきしょうてんがい}の近くに、大手のスーパーがチェーン店をオープンさせることになった。もちろん、商店街の住民は猛反対だ。しかし、スーパーはすでに建設にはいってしまっていた。地元住民への説明会は、反対派をのぞいて行われていた。そのアンフェアな行為に、魚屋の啓三さんの怒髪が天をついた。支店長の家に殴り込みをかけたのは、その夜のことであった。普通なら、警察に通報されても不思議ではなかったが、啓三さんにとって幸運だったのは、支店長の榊原がジャンケン愛好家であったことだ。彼は啓三さんの腕の筋肉の動き、視線の運び方からおなじジャンケン愛好家であると看破した。ジャンケン愛好家が出会えば、することはたったひとつしかない。しかも、お互いが対立する立場にあるというのが、またふたりを燃えさせた。
 かくして翌週、スーパーの建設をかけたジャンケン勝負がおこなわれることとなった。市内の中央公園に仮設ステージが立てられ、審判として遺恨の残らないように市長が呼ばれた。
 だが、この市長がいけなかった。まったくの素人であればよかったのだが、多少の毛がはえたジャンケン愛好家だったのだ。彼が選んだ勝負の方法は三本勝負であった。一本勝負の緊張感もいいが、戦略を競う三本勝負のほうが見ていておもしろいというのが、その理由であった。それは素人の場合だ、と啓三さんも榊原もいわなかった。抗議して自分に不利な判定を下されるのを恐れたのだ。
 その話を聞いたとき、ジャンケン愛好家としての堕落だと、床町茂は思ったものだ。そんなジャンケン勝負は放棄してもかまわない。
 しかし、ふたりのジャンケン愛好家は三本勝負でぶつかった。責任がふたりの肩を押さえていた。
 啓三さんと榊原のふたりがステージ上に立ってむかいあうと、市長が間髪いれずに「ジャンケン!」と叫んだ。驚いたのは啓三さんと榊原のふたりだ。はじめての相手と対する場合は、まったく手が見えず、戦略もなかなか練れないものである。だからこそ、相手の腕の筋肉の動き、視線の運び、呼吸の間合い、流れる風のむき、そこに乗る匂いなどから、相手の手を読まなければならない。観察力、経験、そして運。それらを研ぎ澄ます前に、市長は「ジャンケン!」といってしまったのだ。戦略を競うのがおもしろいといっていたくせに、これだ。素人はなにをするかわからない。
 とにかく「ジャンケン!」の号令がかかってしまっては、「ポン!」といってなにか出さなければならない。野球では、ピッチャーが投球モーションにはいってからのタイムは認められないが、それとおなじことだ。
「ポン!」
 ふたりがだしたのは、共にパーであった。目線をあわせた啓三さんと榊原は、微笑を浮かべあった。お互いに相手がパーを出すと電気信号的に判断し、引き分けるためにパーを出したのだ。これで、観察力、経験、そして運。それらを研ぎ澄ます時間ができた。
 人間の思考は、ともするとスーパーコンピューターよりも早いといわれるが、この瞬間のふたりがまさにそれであった。なぜふたりともパーを出したのか? それは市長にむかっての訴えであった。あんたはなにも知らないパーだと。
 このパーの引き分けによって、運の配分はおおきく崩れた。市長のもつ運が、ふたりのジャンケン愛好家へと流れたのだ。
「ジャンケンポン!」
「ジャンケンポン!」
「ジャンケンポン!」
「ジャンケンポン!」
「ジャンケンポン!」
 何度やっても引き分けで、市長のこめかみから汗が流れ出した。掛け声をいい続ける疲れ半分、冷や汗半分だ。ふたりとも市長を困らせようと、引き分けにしているのではない。真剣に勝利を狙っていた。引き分けになってしまうのは、実力伯仲ということもあるが、市長から流れた運の作用もおおきかった。
 昼からはじめた勝負は、夕日が落ちるころになっても終わらなかった。ともに一勝もせずに、引き分けだけを続けていた。音をあげたのは、やはり市長のほうであった。この勝負は無効との宣告をしたのだ。つきあいきれないと。
 床町茂は思う。自分なら、喉がつぶれようとも決着がつくまでつきあうと。
 かくて、ジャンケン勝負は無効となってしまったが、啓三さんと榊原の間には同好の士としての友情が芽生えていた。お互いにゆずりあった結果、スーパーのテナントを格安で契約するということになったのである。結果、店の売り上げは前よりものびているということだ。
「三回勝負なら、三回しか勝負をしないのだから、引き分けが三回続いても勝負は終わる。それでは決着がつかないという人もいるが、オレの場合は違う。オレは常に決着をつけてきた。すべてオレの勝利でな」
 床町茂は手首にむかって胸をはった。
 はたかれたカンバンがまわる。
 止まった。
『おもしろい』
 口はないはずだが、手首が微笑を浮かべたような気がした。


 漫才師が相棒のボケにつっこみをいれるみたいに、地面から生えた手首がカンバンをはたいた。
 ヘリコのプロペラのようにクルクルまわった後、カンバンがとまった。
『勝てば最高の報酬』
「レベルの高いジャンケン勝負ができればオレは満足だが、なにかをかけたほうがやりがいがあるよな」
 しかも、それが「最高」ときた。もっとも、あまり期待してはいけない。勝負を挑んできた以上、手首は自分の勝利しか信じていないのだから、報酬を用意しているかどうか疑わしいのだ。
 カンバンがまた回り、そして止まった。
『ただし、負ければペナルティーだ』
 用心すべきはこちらのほうだろう。地面からはえた手首のいうことだ。ペナルティーもそれ相応のものだという覚悟はしておくべきだ。
 たとえば、負けた時点で地面のなかに封じ込められ、手首だけが外にでた状態になる。そして、ジャンケンする相手を待つというペナルティー。
 それはそれでジャンケン人生を歩むのはいいかなと床町茂は考えたが、慌てて頭をふって追い払った。
 勝負への渇望を失ってはいけない。勝つことだけを考える。それが勝利への秘訣であった。
 床町茂は右手でチョキをだした。
「一回目の勝負。オレの手はこれだ」
 といって、チョキの形をした右手を手首にむかってさらに突き出す。
 だが、左手はパーの形を作っていた。
 駆け引きはすでにはじまっている。手首がこのパフォーマンスをどう判断するか。それがこの勝負を握っている。
 床町は一回目の勝負は捨ててもいいと計算した。後の二回で勝てばいいのだ。そのためには、手首の思考を読まなければならず、推理の材料を集めるための予告パフォーマンスであった。
 もし逆に予告パフォーマンスをやられたら、と床町は考えた。
 相手が素直に右手のチョキなら、当然こちらはグーをだす。ところが、相手は左手のパーをだすかもしれない。それならチョキをだす必要がある。
 相手がグーをだすことは、あまり考えなくていいだろう。そこまで勝負の枠を広げてしまったら、お互いに思考の泥沼にはまってしまう。最低限の暗黙の了解というものはあるのだ。それを破ってくるとなると、そういう勝負が好きなのだとタイプわけができて、それはそれで思考経路の推理ができる。
 床町茂は、自分ならチョキをだす、と心のうちでつぶやいた。
 パーをだした場合は、負けるか引き分けるかのどちらかで、この手は無謀である。グーをだしたのであれば、勝ちか負けかの五分五分になる。これはこれでおもしろいが、確実性をとって、負けのないチョキのほうを良しとした。ただし、相手がグーを出さないという前提があっての話である。
 手首はどう戦略を練ってくるか。一か八かのグーか? 負けのないチョキか? それとも深読みしてパーを出してくるか?
 床町は、とりあえず手首は自分と同じタイプだと仮定して、チョキを出してくると決めた。
 手首がチョキを出すと予想したのだから、こちらの手は当然グーになるのだが、それは暗黙の了解にひっかかるので出せない。だったら引き分け狙いのチョキしかない。
 一回戦を捨てて相手を探るようにしているのだから、勝ち負けは問題ではない。
 手は決まった。
 手首のほうでも用意ができたのか、しきりに指を広げたり閉じたりしている。
「用意はできたぜ」
 そういってやると、手首がまたカンバンを叩いた。回転。止まる。
『ジャンケン!』
「ポイ!」
 床町茂は瞠目した。
 みずからのチョキと、そして――手首のチョキが空中に火花を散らしたように見えたのだ。
 第一回戦の、それが結果であった。


 床町茂は草むらのなかにわけいった。
 なにか適当な物はないかと探していると、それ以上都合のいいものはないというほどのアイテムを発見してしまった。
 空きビンである。
 ビールビンよりも一回り大きい。ちょうど猫一匹がはいれるくらいの広がりをもったビンだ。もっとも、口は細いので、実際に猫をいれようとすると、動物愛護団体から殴る蹴るのリンチを受けることになるだろう。
「いままで待っててくれたんだ。ついでに、もう少し待っててくれ」
 手首の元に戻ると、床町はそういいながら、今度は道路のほうへ歩いていった。上半身をかがめると、空きビンの細長い口をもって、底のほうをアスファルトに叩きつけた。
「あんたは強い」
 ふりかえって、手首にそう訴える。
 第一回戦は捨てていた。負けてもいいと。結果はもうけもうけの引き分けであった。
 しかし、引き分けた瞬間、体中に電流が走ったようなショックをうけた。理屈ではなく感覚で、手首の強さを知ったのだ。少なくとも自分よりも上のレベルにいる、と。戦略では勝てない。
 床町は右手にもった空きビンを視界の隅で見た。
 底がわれた空きビンは、サメの鋭い顎のように牙をむいていた。これで突けば、人間の皮膚などズタズタに裂けてしまうだろう。
「あんたは、尊敬に値するくらい強い。だが――」
 床町は右手をふりあげた。
 だが、その手には空きビンはなかった。力強く拳を握っているだけだ。
 括目して見よ!
 空きビンははるか頭上にあるではないか。太陽の光をその牙に煌かせながら、垂直に落ちてくる。しかも、回転して。
 もしぶつかれば、その鋭い牙によって肉は裂かれて、骨まで削られるだろう。
 床町は頭上の危機はまるで気にせず、拳を突き上げたまま、
「だが、勝つのはオレだ」
 突き上げた拳に、空きビンが突き刺さらんとした。いままさに!
 床町は拳に軽い衝撃を感じた。
 視線をあげると、拳に空きビンが乗っていた。そう、まさに乗っているというのがふさわしい。空きビンの鋭い牙は、まるで床町の拳をよけるみたいに、その周囲をかこっている。
 括目したうえに瞠目せよ!
 床町の拳は、われたビンのなかにおさまっているのだ。
 あと数ミリずれていれば、間違いなく鋭い牙が拳に突き刺さっていたはずなのに……。
 床町は拳を右にふった。飛んでいったビンが、草むらの影でガチャンと鳴いた。
「普通なら、オレの手はいまごろズタズタのザクロになっていただろう。だが、見ろ」
 床町は手首に手首を突き出した。傷ひとつない。
「これで、運は、オレのほうへ巡ってくる」
 地面から生えた手首が、カンバンをはたいた。回転して、止まる。
『やるじゃないか』
 そして、人差し指をたてて左右にふった。チッチッチという舌打ちの音が聞こえてきそうだった。
 その人差し指が、坂の上方を指差した。
 仰ぎ見ると、自転車に乗った少年が見えた。ペダルから離した足を八の字にして、惰性で坂を下りてくる。あと数十秒で、この前を通過するだろう。
「あの子がどうし……」
 ふりむいて手首にむかった床町は、言葉をそこで飲みこんだ。
 手首のわきに、いつの間にかロケット花火が突き刺さっていたのだ。それも、ほぼ地面と平行になるほどのゆるい傾斜で。
「なにを……」
 床町はみなまでいえなかった。
 手首がいつの間にか手にしていたライターで、ロケット花火に点火するほうが早かったからだ。
 次の瞬間、床町の耳のなかで二種類の音が交錯した。
 坂を下りてくる自転車の音と、ロケット花火の導火線が燃えながら縮む音だ。
「まさか! あの子にあてるつもりか!?」
 と叫んだ床町の股下をロケット花火が飛燕の速度ですっ飛んだ。
 コンマ何秒かの出来事で、いつ発射されたのかわからなかった。
 それでも、なんとか、床町はふりむけた。
 地面スレスレを飛んでいるロケット花火と、少年の乗る自転車がいまにも接触しようとする。
 刹那!
 驚くべきことがおこった。
 否!
 驚くよりもはやく事態はすぎていった。
 なにごともなく。
「なんだと」
 床町は口のなかだけでつぶやいた。うなじの毛が逆立つ。
 自転車に乗った少年は自身におこった驚嘆すべき現象も知らずに坂を下り、やがて見えなくなった。
 ロケット花火の行方は――わからない。どこかそのへんの草むらにでもまぎれこんだのだろう。
 しかし、ロケット花火の描いた軌跡は、いまも目に焼きついている。
 ロケット花火は、なんと自転車をすりぬけたのである。もちろん、幽霊みたいに透過したというわけではない。スポークの隙間をぬって通過したのだ。
 タイヤの内側に放射状にはられた針金。その隙間のなんと狭いことか。しかも、回転しているのだ。その間をぬけさせるという芸当を、手首に見せつけられたことになる。
 床町の体は震えるはじめた。


『これで運がこちらに流れてくる』
 回転がおさまったカンバンには、そう記されていた。
 手首がはたき、また回転――止まった。
『これで運は、プラスマイナスゼロってところだな』
「そのようだな」
 床町は声まで震えていた。
 体も震えている。
 寒いわけではない。
 むろん恐怖からでもない。
 この震えは武者震いであった。
 これほどの強敵に出会えたうれしさよ。
 歓喜が体を震わせる。
 床町は頭上に右手をふりあげた。
 手首がカンバンをはたいた。
『ジャンケン!』
 床町は右手をふりおろしながら叫んだ。
「ポイ!」
 床町茂がジャンケン狂になったのは、十数年前のある出会いがきっかけであった。
 その日、床町茂少年はいつもよりも遅く帰宅した。放課後の掃除当番をひとりでやっていたからだ。罰当番ではなく、ジャンケンに負けて、友達に押しつけられたのであった。
 雑きんがけですっかりふやけた手をポケットにしまったまま、床町少年は自分の家に帰りついた。
 そして、おや? と思った。隣の門前から、トラックが走り去っていったからだ。
 林さんが引っ越してから、丁度一週間。もう次の人がはいってきたのかな。そんなふうなことを思った。
「脱臼するとくせになるというね」
 突然、そんな声がして、床町少年はびっくりして周囲に首を巡らした。
 だれもいない。
「転校も脱臼と同じでね。一度やってしまうとへんな癖がついて、次の転校も意外とはやくやってくるようになる」
 隣家の門の影から、詰め襟の学生服を着た青年があらわれた。黒の制服には見覚えがある。海鳴中学のものだ。
「今度隣に引っ越してきた悠木翼だ。よろしくな」
「は、はじめまして」
「きみ、ここの家の子だろ。とすると、名前は床町くんだね。表札でわかるよ。ところで、ちょっとジャンケンしないかい?」
「え?」
 床町少年がなにかいう前に、悠木翼と名乗った青年が、チョキを突き出してきた。
「ぼくの手はチョキだ」
 その予告に、床町少年はびっくりした。これから出す手をわざわざ教えるとは、それじゃあ絶対に勝てないじゃないか。
 しかし、ビックリ眼になったのがかえってよかった。悠木の左手がパーになったのが見えたのだ。
「プププ」
 床町はこっそり笑った。悠木の悪巧みがわかったのだ。出すべきはチョキだ。
「いくよ。ジャンケンポン!」
 悠木の言葉の勢いに、床町少年は慌ててチョキをだした。
 結果は――引き分けであった。
「あっ。チョキだ。パーを出すと思ったのに」
「ぼくはきみがチョキを出してくるとわかってた」
「え?」
「だけど、グーは出さなかった。暗黙の了解にひっかかるからね」
「暗黙の了解?」
「今度、教えてあげるよ。きみとは気があいそうだ。それよりも」
 といって、悠木青年が床町少年の手をとった。まだチョキの形をしている手を眺めて、
「ふやけているね」
 床町少年は慌てて手を引っ込めた。
「小学校にしては、帰りが遅い。遊んでいたとすれば、今度は帰りが早すぎる。学校に残されていたね。手がふやけているということは、雑きんがけでもしていたのかな」
 床町少年は目を見開いた。ピタリあたっているではないか。
「ビックリすることじゃない。ぼくはみたままの感想をいったまでだ。あたったのはたまたまだよ」
 それと、と悠木青年が続けた。
「ジャンケンに勝つには、洞察力が優れてないといけないからね」
 その日から、床町少年は悠木青年にジャンケン道を伝授されるのだが、その間、ただの一度も勝てた試しがなかった。
 あるとき、町内会でジャンケン大会が行われた。
 ふたりは当然出場した。床町少年にとっては、初の公式戦ではりきっていた。
 ふたりは、順当に決勝に残った。
「手加減はしないよ」
「ぼくもだよ」
 結果は二勝一分け。どちらが勝ったかはいわずもがなだ。
「凄いね」
 試合後、悠木青年がそういった。
 彼の胸には、金メダルがかけられていた。厚紙に金色の折り紙を貼りつけただけの物だが、床町少年の目には燦然と輝いて見えた。
「一回戦、ぼくは勝つつもりだったのに、きみは引き分けにしてしまった。正直、びっくりしたよ」
 悠木青年が胸の金メダルをとった。
「この大会が、一ヶ月先に行われたならば、このメダルはきみの物になっていたかもしれないね」
 そういってから、ポケットのなかにしまった。
「でも、勝ったのはぼくだ」
 かすかに微笑んだ口元には、だれもがつかみたいと思ってつかみえない誇りがにじんでいた。
 そして、どこか、悲しんでいるような。
 悠木青年が引っ越したのは、大会の翌日であった。
 床町少年の元に、たった一枚の便箋を残して。
 そこには次のように書かれていた。
『引越しは脱臼と同じ。一度やってしまうと癖になる』
 床町少年は、それからジャンケンでは負け知らずになった。掃除当番をひとりですることもなくなった。中学、高校、大学と進学し、その間にジャンケンの腕もさらにあげた。悠木青年以外には、だれにも負ける気はしなかった。
 だが、この手首は……。
 この手首は……。
「うう……」
 床町茂は喉の奥からうめきを発した。
 おおきく広げた右手のひらに、汗がにじむ。
 白い手袋をつけた手首も、おおきく手をひろげていた。
 パーとパー。二回戦も引き分けであった。


 嫌な予感が、汗となって額ににじんだ。
 一回戦は負けるつもりで引き分けになった。
 しかし、今度は違う。勝つつもりで出して、そして、引き分けで流されてしまったのだ。天運が確実に手首に流れている。
 脅威という名札をつけた嵐が、床町の脳内で吹き荒れた。
 ふいに、ペナルティーのことが頭に浮かんだ。
 地面に封じ込められ、手首だけが外にでた状態でジャンケンする相手を待つ。そういうペナルティーを想像して、まあいいかと一瞬思ったこともあったが、それはこちらの勝手な推測で、実際は全然べつのペナルティーである可能性が高い。いったいどんなペナルティーなのか。
 額に浮き出た汗が流れて、目にはいってしみる。
 床町は自分を落ち着かせるつもりもあって、ポケットからハンカチを取り出そうとした。
 ポケットの中で、手が違うものふれた。
 取り出して、太陽にかざすと、それは鈍く光った。
 銀メダルであった。厚紙に銀紙を貼りつけただけの。町内会ジャンケン大会の、それが準優勝者におくられた商品であった。
 みるみる汗がひいていく。
「危なく、平常心を失うところだった」
 考えてみれば、手首も勝ちにきていたはずなのだ。それが引き分けになったのだから、天運の流れは五分と五分ではないか。
「次も引き分けなんてことにはしないぜ」
 床町は自信満々で胸をはった。
 手首がカンバンをはたいた。回転。止まる。
『のぞむところだ』
 床町の頭のなかで、すばやく計算が行われた。
 一回戦はチョキ、二回戦はパー、バランスでいけば次はグーだが、それだと素直すぎる。チョキとパーにしぼっていいだろうが、その裏をかいて素直にグーという手もありうる。
 三回戦ともなると、むこうもこちらの手を読んでくる。裏の裏の、そのまた裏をかく必要があった。
 数秒の思考の後、床町の手は決まった。
「ジャンケン!」
 と叫んで、頭上に右腕をふりあげる。
 同時に、手首がカンバンをはたいた。回転するかしないかのうちに止まる。
『ポン!』
 床町の手がふりおろされた。
 形は――パー。
 地面から生えた手首は、白い手袋に包まれた手首は――固く拳を握っていた。グーであった。
「オレの勝ちだぜ」
 あっけないといえば、あっけない結末であった。
 いや、そう思わせられるほど、この瞬間には床町がおおきく優位にたっていたのだ。銀のメダルを手にしたときから。
 カンバンがまわって止まった。
『おみごと』
「たしか、勝てば最高の報酬だったよな」
『そのとおりだ』
「どこにあるんだい?」
『そこだ』
 と、手首が人差し指で、三十センチほど先を指差した。
『掘れ』
 床町は無言でうなずくと、銀メダルをポケットにしまってから、手を土に突っ込んだ。まるで、耕したかのようにやわらかい。数回掘り起こすと、すぐに木箱がでてきた。
「ふん、これか」
 手首を見下ろすと、なにも反応を示していなかった。
 床町は木箱を慎重に取り上げた。土を払ってから開けようとするが、閉じた貝のように微動だにしない。
 よく見ると、鍵穴がついているではないか。
「おい、これ……」
 床町はみなまでいえなかった。
 いう相手がいなかったからだ。
 手首のいた位置には、なにもなかった。痕跡を残すような物はなにも。立っている看板も、古びて黒ずみなにも書かれていなかった。そんなに遠くない昔、ここは花壇だったのかもしれない。その証拠に土もやわらかい。
 手首との勝負は夢か幻か、しかし床町の腕のなかには、蓋のあかない木箱があった。
「これが報酬かい?」
 聞く相手のいない言葉を、床町は地面に落とした。
「いや、違うな。あの勝負こそが報酬だ」
 床町茂はその言葉だけを残して、激闘の地を後にした。


 ノックしてはいると、病室のなかは沈黙が支配していた。
 遅かったようだ。だが、床町に後悔はなかった。もし手首との勝負を放棄して間に合ったとしたら、逆に叱られてしまっただろう。
 ベッドにとりすがってすすり泣いている女性がいた。彼女が知らせてくれたのだ。
 悠木翼が危篤状態にあると。彼が肺の病をわずらっていたと、そのときはじめて知った。
 医者が目礼して退室していった。
「駆けつけてくれたんですね?」
 すすり泣いていた女性が、顔をこちらにむけた。目元が真っ赤で、見ているだけで胸が締めつけられる。
「ありがとうございます。夫はいつもあなたの話をしていました。顔を見てあげてください」
 といって、わきにのく。ヒステリックになるかと思っていたが、拍子抜けするほど冷静だ。覚悟ができていたからか、まだ現実を受け止められていないかのどちらかだろう。
 床町は悠木の顔をのぞきこんだ。十年前よりも、顔つきがずっと精悍になっている。無精ひげはご愛敬だろう。
 そして、口元には微苦笑が浮かんでいた。だれもがつかみたいと思ってつかみえない誇りがにじんでいる。
 なぜ? という疑問がわいた。肺の病でずっと寝たきりだったのに、なぜそんな微苦笑を浮かべられる?
 抱えていた木箱をベッドサイドのテーブルに置いて、床町茂は視線を横にずらした。
 悠木の妻がベッドに取りすがって泣いていたせいだろう。掛け布団がわずかにずれて、病人の細い手が見えた。
 固く拳を握るその手首には、茶色い筋がついていた。目を近づけて子細に観察すると、それは湿った土のようであった。
「こんなに力をいれていたのね」
 床町の視線に気づいた悠木婦人が、夫の拳を広げさせようとした。
「あら? よっぽど強く握っていたのかしら、開かないわ」
 そういう悠木婦人をやんわりと押しのけて、床町茂は悠木の拳に手を置いた。
「あら?」
 悠木婦人が頓狂な声をあげた。
 なにもしないのに、悠木の手が開いたからだ。
 手のひらには、鍵が握られていた。
 床町はそれを手に取り、木箱の穴に挿しこんだ。
 カチリ、と音がした。
 蓋をあけると、箱のなかには……。
「最高の報酬」
 床町茂はそうつぶやき、金のメダルをみずからの首にかけた。

   (完)

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このページは、浅川こうすけが2007年4月 3日 01:00に書いたブログ記事です。

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