2007年11月アーカイブ

 清原憲史{きよはらのりふみ}は憤怒の形相で、店員にむかって枕を投げつけた。
 ナノテク技術を取りいれた最新枕が、豊満な胸にあたって跳ねあがる。
「お客様、どうなさいました?」
 店員は動じず、落下した枕をキャッチした。微笑さえ浮かべている。口紅が店舗の照明を反射して、赤く濡れ光った。
 清原は額の青黒くなった痣を指さし、大声でどなった。
「枕のせいだ! まともなのと交換しろ!」


 最近になり、清原はどれだけ睡眠をとっても、まるで寝た気がしなくなっていた。体の疲れはとれているが、睡眠欲が満たされないのはつらいと、頭を抱えていたのだ。
「そういうことで、昨日ここで買ったんだ」
 どなってすっきりしたのか、清原は落ちついた声で説明した。
「それはありがとうございます」
 店員に礼をいわれた。シミひとつない綺麗な笑顔からは、物に動じないぞというオーラがにじんでいた。クレーム処理に慣れていますという印象を受ける。
 ナノテク枕を買ったのは、「夢がふくらむナノテク技術」という売り文句に惹かれてだ。複雑に織り込まれたナノテク繊維が、頭にジャストフィットする助けとなるらしい。
 寝心地はよかった。うとうとしていたところまでは覚えている。その後、眠りに落ちたのだろう。夢を見ていた記憶がある。さすが、「夢がふくらむナノテク技術」である。
 だが、いきなり起こされてしまった。
 頭を強く押されたかと思った刹那、勢いもそのままに、タンスに額をぶつけたのだった。
「当店の枕と関係があるのでしょうか?」
「枕を変えた直後なんだから、関係ないわけないじゃないか。オレが考えるに、枕が元の形に戻った反動ではじかれたんだ!」
「それは大変失礼いたしました」
 店員が頭を下げると、肩で切りそろえられた黒髪が、はらりと流れた。
「ですが、お客様」
 店員が顔を戻しながら、耳のうえに髪をかきあげた。
「そのようなクレームは、ほかにございません。こういってはなんですが、お客様ご自身に問題があるのではないでしょうか?」
「はあ!? 責任逃れか!」
「いいえ、責任からは逃げません。なぜそうなったのかという原因を、責任をもって究明させていただきます」
 店員が不敵に微笑んだ。


 タイトスカートを張りつめさせたヒップが、左右に揺れ動いていた。店員が三脚を立て、ビデオカメラをセットしているのだ。
「念のため、本社に確認をとりました。やはり、同様のクレームはないということです」
「はあ。それはどうも」
 清原が布団のうえであぐらをかき、店員を横目で盗み見ながら返事をした。慣れ親しんだ寝室とは思えなかった。すでに怒りのエネルギーは霧散し、あいたスペースに戸惑いが滑り込んでいた。
 どういう話になったのか。くわしくは覚えていない。店員のペースに巻き込まれ、いつのまにやら、昨夜と同じことが起こるか確認することになってしまった。
 そして、この状態である。
「技術部の者とも話しました。おっしゃるとおり、ナノテク枕の復元力は、人間の頭をはじくぐらいの力があるそうです。ただし、頭が乗っているかぎり、枕が戻ることはない。物理的にありえないと、断言しております」
 ビデオカメラとノートパソコンをつなげ、
「セット終了です」
 と、店員がきっちり膝をそろえて正座した。
「事が起こるまで、ここで待機させていただきます。カメラは検証のため設置しました」
「いや、その」
「さあ! お眠りください」
 静かなる気迫に押され、清原は横になった。店からもって帰ってきた枕に頭をあずける。眠るために目を閉じるが、睡眠天使はいっこうにやってこなかった。まだ午後九時をすぎたばかりなので無理もない。しかも、まぶたを透かして、照明の光が見えるしまつだった。
「店員さん、すみませんが」
 目をあけた清原の眼前に、そろえられた膝頭があった。とまどってそらした視線の先に、店員の微笑が待ち受けていた。
 清原は咳払いを挟んでから、
「眩しいから照明を切ってもいいですか?」
「ダメです」
 にべもなく、ぴしゃりとやられた。
「暗くすると、カメラに映りません。ですが、眠れないというのも問題ですね。しょうがありません。台所をお借りします」
 立ち上がった店員が、隣室へと姿を消した。しばらくして、レンジが「チン」と鳴る。
「お待たせしました」
 鼻腔を甘い匂いにくすぐられた。
「これをお飲みください」
 差しだされたマグカップにはミルクが満たされ、ほんのりと湯気が立っていた。
「体が温まって、すぐに眠くなりますよ」
 清原は店員にいわれるまま、素直にホットミルクを飲んだ。横になり、まぶたを閉じる。
「では、眠くなるまでお話をしましょう」
「はあ」
「確認です。額をぶつけたとき、眠っていたんでしたよね?」
「ええ」
「横になっていただけでしょうか? それとも、完全に眠っていた?」
「うとうとした後でしたし、夢を見ていたような気がするので、眠っていたと思います」
「どんな夢を見ていましたか?」
「よく覚えてませんが、手足をのばしてのびのびしていたと思います。――あの、こんな話をして意味あるんですか?」
「確認という退屈で単調な話なので、眠りやすいかなと思いましたもので。それに、睡眠薬が効くまで間がもちませんし」
 睡眠薬という単語に、清原は跳ね起きようとし――できなかった。思うように動けない。瞼も重い。意識は際限なく希薄に拡散し霧消。
「眠れないということでしたので、さきほどのホットミル――」
 店員がいい終わるよりも早く、清原は眠りの沼に沈んでいった。


 目が覚めたのは、跳ばされた瞬間だった。
 またか! と額を両手でガードしようとするが、起き抜けでは動きがにぶすぎた。緊張で体を固くしたが、想像した痛みはやってこなかった。やわらかく跳ね返されただけだ。
 布団のうえに尻もちをついた清原は、目をしばたたいた。ふくよかな胸をそらした店員が、タンスの前に立っていた。
「まったく、驚きだわ」
 あごに人差し指をあて、何事か考えているふうに、ビデオカメラまで歩いていく。
「映っていれば、いいのだけれど」
 店員はあごからはなした指で、カメラの停止ボタンを押した。
 清原は座り込んだ姿勢で、彼女の動向を見守るしかできなかった。声をかけようとしても、なにをいえばいいのかわらず、喉からは息しかでてこなかった。
 店員がカメラをテレビに接続し終わり、こちらをふりむいた。
「原因がわかりました」
 再生ボタンが押された。
「お客様がどなり込んできたとき、おしゃっていましたね。最近は寝た気がしなくなったと。でも、体の疲れはとれていると」
 モニタの映像は、ミルクを飲んだ直後まで進んだ。
「眠る前の話では、夢を見ていたような気がするとおしゃっていた。手足をのばしてのびのびしていた、と。自由を満喫していたのでしょう――見て、ここからよ」
 清原は唾を飲み込み、画面に見いった。
「うぐ」
 喉から、声にならない声が絞り出された。
「技術部のいったとおりでした。枕に頭が乗っているかぎり、枕が元の形に戻ることはない。逆にいえば、頭が乗っていないとすれば、枕は元に戻るということ」
 モニタの映像では、たしかに枕が元に戻っているのが確認できた。跳ね飛ばされ、店員の胸に跳ね返される自分を見ながら、清原は体を震わした。
「そんな、まさか……」
「信じられないのも無理ありません。ですが、事実です。そして、やはり。枕のせいではなく、あなた自身に原因があった」
 店員はいい終わると、機材を片づけはじめた。手際よくおおきなカバンに収めていく。
「この枕は返品されたほうがいいでしょう」
 店員が枕の代金を置き、かわりに枕を片手につかんだ。
「では、失礼いたします」
 一礼し出ていった。
 静寂が支配する部屋の中、清原は自分が見た映像をもう一度思い出した。
 自分の体から白いもやのようなモノがでて、手足を大の字にひろげるのを。
 体という殻から開放された魂が、のびのびとしている様を。
「夢がふくらむナノテク技術か」
 ポツリつぶやく。
 ナノテク枕は物体としての頭ではなく、魂の頭が離れたことを感知し元の形に戻った。
 清原はそう納得し、ナノテク技術に改めて舌を巻いたのだった。


 店員は機材を所定の部署に返した。
「お疲れ様です」
 労いの言葉をかけてくる担当に、片手をあげてこたえ、更衣室へむかう。その背に、
「ああ、それと三村さん」
 と、担当の渋い声があたった。
「パソコンやビデオカメラは、もっと丁寧にあつかってくださいよ。三脚やらといっしょにカバンにしまってるじゃないですか」
「気をつける」
 三村と呼ばれた店員は、更衣室にはいった。ため息をつきながら服を脱ぎはじめる。
 今日も不良品に関する苦情を処理した。返品を幽体離脱など嘘八百。映像に細工するなどは、パソコンを使えばたやすかった。
 絵空事を躊躇なく口にできるという才。それゆえにクレーム係にされたが、もう疲れた。
 ウソをつくこがではない。
 店員は服をすべてぬぐと、両胸のふくらみをつかんだ。
「肩こるんだよな、これ」
 店員がやおら胸のふくらみをひねった。
 あっけなくとれた。
 さしたる感情の起伏もなく、ヒップにも手をかけ、同じようにむしりとる。手は首のつけ根あたりに移動し、顔の皮をめくっていく。
 光にさらされたのは、男の顔であった。カツラはいつのまにか床に落ちている。
「ふう、すっきりした」
 声も男のものであった。いまはいだ顔は、首のところに変声機がついているのだ。
 バストとヒップはスタイルアップツールで、顔に装着していたものは変装ツールだった。いずれも試作品だが、このテストがうまくいけば、製品化もありうるかもしれない。
 クレーム処理係は女性のほうがやりやすいが、店内でクレーム処理に耐えられる女性はいなかった。返品を受けつけるくらいならだれでもできるが、口コミで不評が広がらないようにするためには経験が必要なのだ。
 本社の開発部から、二種の試作品が届けられたのはごく最近だった。テストをかねて、使用させられているというわけである。
「夢がふくらむナノテク技術か」
 安易に鼻の下をのばせなくなったなと苦笑しながら、店員はつぶやきを落とした。

円天たゆたう

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 円天という独自の通貨でワイドショーに名をとどろかせたエルアンドジー。そのエルアンドジーの波和二会長がブログを開設している。波和二会長のブログは円 天 /波 和二である(ちなみにBIGLOBEのウェブリブログが利用されている)。

 夢見がちな中学生の妄想かとうたがう内容だ。しかし、実際に何億円と集めた詐欺師が書いたというバックボーン込みで読むと、すこぶるおもしろい。痛い発言ばかりなので鼻で笑ってしまいそうになるが「すわ、詐欺師がひとをだますテクニックとはこれか!?」と深読みできる記述もある。ブログに書かれている内容はおおむね笑ってしまうが、なあに、それが詐欺師の手練手管なのだ。わたしが書くようなへたな小説より何倍も愉快である。

 ――ねんのために書いておくが、わたしは波和二会長のシンパでもないしエルアンドジーの社員でもない。あかり会員でもなければ友人知人にも会員はいない。まったく無関係の人間だ。もちろん円天をすすめているわけでもない。「欺術」よりもおもしろい読み物だと、ただそれだけをいいたかったのである。

 とっても汚くて、とっても臭いと、けんたろうくんは思いました。
 川原の草むらにたおれている男の子のことです。
 よごれてまっ黒の体に、ぼろきれをまとわりつけています。ちかくをハエが飛んでいます。
 ううううう
 と、男の子がくるしそうにうなりました。
 けんたろうくんはお母さんの言葉を思いだしました。
「こまっている友だちがいたら、助けてあげないとだめよ」
 お母さんはこうもいいました。
「服がよごれるようなことしちゃだめよ」
 男の子をたすけると、服がよごれてしまいそうです。男の子は汚くて、臭いからです。
 お母さんのいいつけは、どうやっても守ることができません。
 けんたろうくんは、少し考えて、じぶんの好きにするようにしました。
 汚くて臭い男の子に近づいていきます。
 助けるといっても、どうやればいいのかわからないことに気づきました。
 とりあえず、けんたろうくんは男の子の体にふれて、ゆらしてみました。
 男の子が目をさましました。


 桑島健太郎{くわしまけんたろう}は頬に小さな、しかし無視できない痛みを感じた。
 クラスメイトのいたずらで、シャーペンの芯が投げつけられたわけではない。痛みを感じたのは左の頬だった。そちらがわには、窓しかない。
 虫刺されでもないだろう。教室内でときおり鼻をすする音がするくらいだ。震えるほどではないが、この季節、二階まで飛ぼうという元気な虫はいない。
 二度目のチクリがきた。
 左頬をなでる。
 あと五分で、退屈な古文の授業が終わる。頬がどうなっているか、鏡で確認したほうがいい。
 だめだ。昼休みだった。購買に行って、カツサンドを買わなければいけない。
 鏡かカツサンドか。
 健太郎は、どちらにしようか頭をひねった。
 また、チクリ。
 さっきより痛い。
 窓のほうをむいた。いつもとちょっぴり違う景色がそこにあった。曇り空のことではない。校門に、ふたりの人物が立っていたのだ。
 ひとりは黒髪を腰までのばした女子だ。見覚えのある制服は、海鳴高校のものだろう。教室からは距離があって顔はよく見えないが、きっと美形に違いない。立っているだけで、さまになっている。美女でなければウソだ。
 もうひとりの男は、帽子を目深にかぶっているので、人相はまったくわからない。こちらは夕艶高校の、つまりこの学校の、制服を着ている。
 チャイムが鳴った。
 男が帽子をかすかにあげた。
 あの痛みが、おでこに刺さった。
 教室内の喧騒をかすかに耳に感じながら、桑島はおでこをさすった。
 わかった。
 小さな、しかし無視できない痛みは、あの男の視線が刺さっていたのだった。


 汚くて臭い男の子は、元気になりました。
 どうして元気になったのかはわかりません。
 けんたろうくんは、あの日から、給食のパンをのこして、川原にもってくるようになりました。男の子にあげているのです。
 男の子の名前はわかりません。うー、とか、あー、とかしかしゃべらないからです。
 顔のあちこちが、おおきくふくらんでいて、じゅぶじゅぶと黒い汁がでています。男の子が汚くて臭いのは、その汁のせいです。
 どこからきたのかもわかりません。ぼろきれを体にまいているのは、服がないからでしょう。
 汚くて臭い男の子は、草むらに寝てしまいました。パンを食べるといつもそうです。
 けんたろうくんは、ぼんやりしていました。きょうは体育で、さかあがりができませんでした。
「くわしまくーん!」
 女の子の声に、ふりかえります。クラスメイトのこじまさんです。かわいくて、いいにおいのする女の子です。下のなまえは、みことです。こじまみことさんです。
 こじまさんが、川原へおりてきます。両目の下に、それぞれほくろがあります。かわいいです。
 こじまさんもさかあがりは苦手です。だから、なかよくなれました。
「なにして……」
 こじまさんの声がとぎれます。息をすいこむ音がきこえました。
 けんたろうくんはふりむきました。
 汚くて臭い男の子がたちあがっていました。


 校舎からでて、桑島健太郎は空を見上げた。昼間よりも、雲が黒い。
 雨が降るか、降らないか。
 健太郎はちょっと考え、降らないことに決めた。いくら考えても、天気がどうなるかはわからない。自分の好きなほうにしてしまっていいだろう。
 帰宅していく生徒たちが、校門をぬけていく。健太郎もその群に合流して、校外へとでた。左右を見回す。あのふたりがいるかもしれないと思ったのだが、杞憂だった。
 いったいあの男女は何者だったのか。痛みを感じるほどの強い視線。男はいったいなにを見ていたのか。
 自分には関係ないさ、と健太郎は歩きだした。数歩といかないうちに、アスファルトに黒い点がついた。見る間に数がふえていく。
 かるいため息をついて、かばんを頭の上においた。雨にはぬれたくなかった。軽く駆けて家路を急ぐ。雨足のほうがはやかった。たちまち本降りになって、追いたててくれる。
 健太郎はたまらず、帰宅途中にある公園へ飛びこんだ。園内の何ヶ所かに、東屋があった。そのひとつに駆けこむ。
「本能的に雨をいやがるだろうという予想」
 女の声がした。
「あたり、ね」
 東屋の屋根を支える太い柱。その裏側から声がした。
 無視するか、声をかけるか。
 健太郎が決定する前に、柱の影からその女がでてきた。
「あ」
 無意識に、口から声がもれた。
 彼女も雨にあったのか、黒髪が艶をおびて腰まで流れていた。海鳴高校の制服に身をつつんだ美女は、校門に立っていた女性と同一人物だった。
「はじめまして」
 女が目をほそめた。ミステリアスに見えるのは、泣きボクロが両目にあるせいだろう。
 女が、今度は、唇のりょうがわをつりあげて笑った。
「小島美琴よ。よろしくね」


 こじまみことさんが、おおきく目をあけて、一歩うしろにさがりました。汚くて臭い男の子におびえたのです。
 男の子は顔のはれものから、じゅぶじゅぶと黒い汁をだしているのです。いやがられて当然です。
 けんたろうくんは、こじまさんに男の子のことを話そうとしました。
 できませんでした。
 男の子のほうが早かったのです。
 迷うことなくこじまさんに近づき、右手をまっすぐに突きだしました。
 なにをするつもりなのかわからなかったので、けんたろうくんは邪魔ができませんでした。あっと思ったときには、もう男の子の腕が、こじまさんの胸から背中へ貫通していました。。
 けんたろうくんは、ショックでピクリとも動けませんでした。
「邪魔、だ」
 だれの声かわかりませんでした。
 でも、ここには二人しかいないし、けんたろうくんはしゃべっていませんでした。
「やっと、話せる、ように、なった」
 汚くて臭い男の子が、腕を引きぬきました。こじまさんがくずおれます。
「心配、するな。この女は、本物じゃ、ない。本物は、あちらの世界、にいるはずだ」
 男の子がいい終わらないうちに、たおれたこじまさんが変わっていきます。顔のあちこちが、大きくふくらみはじめ、じゅぶじゅぶと黒い汁がでています。目玉からぷちゅぷちゅと汁がでて、どろりとこぼれ落ちました。どんどん汚くて、臭くなっていきます。手や足もどろどろにとけてます。


 桑島健太郎は目線をさまよわせた。
 こじまみこと。その名前が記憶のどこかにひっかかる。どこかで聞いたことがあるような気がした。
「わたしね」
 困惑もおかまいなしに、小島美琴がしゃべりだした。目をとじ、腕をひろげて、おおきく息をすう。微笑がうかんだ。
「こちらがわの空気を吸うのは、ほんとひさしぶりなのよ。洗われるわ、肺のなかがね」
 健太郎はあとずさった。この女、ちょっとおかしいんじゃないかということに、いまさらながら気づいた。
「怖がらなくてもいいわ。気がふれたわけじゃないから」
 小島が目をあけた。
「わたし、ずっとあちらの世界にいたのよ。小さなころからずっとね。つい最近なのよ、帰ってきたのは」
 小島が東屋の屋根から手をさしだして、雨粒をうけた。
「これから、家に帰るとこ。十年ぶりになるかしら」
「えっと……」
「だれかのせいで、これから大変よ。十年も行方不明になってた言い訳をしんじさせないといけないんだものね」
「あの……ぼくはそろそろ」
 雨に濡れるのはいやだが、これ以上ここにはいたくない。ひきつる頬にそんな思いをこめ、健太郎は体を反転させた。
「ほんとは身代わりがいるはずだったんだけど、だれかに壊されちゃったのよね。ほんと、こまっちゃうわ」


 こじまさんが、どろどろとまるで泥のような固まりになってしまいました。彼女のふくだけが、泥のなかにうもれています。
「嫌い、なんだよ」
 汚くて臭い男の子がいいました。
「自分と、おなじものが、嫌い、なんだよ。同属嫌悪、ってやつかな」
「あ、あああ、あ、ああ……」
 けんたろうくんは、言葉をだせませんでした。いったい、なにがどうなって、こうなっているのでしょう。まったくわかりません。
「しかし、身代わりを、こわした」
 けんたろうくんのとまどいをよそに、汚くて臭い男の子はしゃべりつづけました。
「あったことはないが、本物の小島美琴、あとで、きっと、苦情をいってくるだろうな」


 東屋の外へ駆けだそうとした健太郎の背中に、その言葉がぶつかった。
「昔、あちらの世界から、こちらの世界へ、男の子がひとりやってきた」
 健太郎はたたらをふんだ。
「身代わりとしての役目をはたすためにね。こちらの世界へやってきて、最初にさわった人間をコピーして、すりかわるために」
 なにが琴線にふれたのか、健太郎はふりむいた。
 小島美琴が右目の泣きボクロにふれ、
「もともとあちらの世界の泥が原材料だから、姿かたちをまねるのは簡単なのよ。粘土細工みたいなものね。すごいのは、言葉や性格もコピーできるってこと。どういう原理かは、わたしは知らされてないわ」
 健太郎の頭に浮かんだ言葉はふたつだった。
 信じる、と、信じない。
 信じないのは簡単だ。そんなバカな話と一笑にふせばいい。信じることも簡単だ。美人の発するオーラにのまれればいい。
 健太郎はどちらも選ばなかった。いつものように、好きにしたわけでもなかった。
 ただ、理解したのだった。彼女の言葉にまちがいはないと。
 靴の音が背後でした。
 健太郎はふりかえる寸前、小島のくちびるのはしがつりあがるのが見えた。
 東屋内に、男がはいってきていた。夕艶高校の制服だ。帽子を目深にかぶっているので、人相はまったくわからない。
「よお、ひさしぶり」
 男が右手をあげた。どういうわけか、その声は健太郎にそっくりだった。
「やっと会えたな」
「あ、あなた……」
 健太郎は一歩うしろにしりぞいた。頭のなかで、危険信号が明滅していた。
「どういうわけか、すっかり自分の記憶をなくしてるみたいだな」
 健太郎にそっくりの声で、男がいった。
「オレがお前をうらんでいる理由なんて、想像がつくまい」
「う、うらむ? ぼくを?」
 男はすぐには答えず、もったいぶった動作でつばに手をかけた
「ああ、そうだ。お前をうらんでいる」
 男が帽子をはずした。
「うらんでいるぞ。名なしの泥人形め」
 と、健太郎をゆびさした男の顔は、健太郎とうりふたつだった。


 はあ、はあ、はあ。
 けんたろうくんは、自分の息の音をききました。耳のおくで、血もどくんどくんといっています。
 こじまさんのことにショックを受けたのもそうですが、それだけではありません。
 汚くて臭い男の子の顔が、どんどんかわっているからです。
 顔にできていたはれが、ぼろぼろとかさぶたがはげるように落ちていきます。でていた黒い汁も乾燥して風にとばされていきます。
 汚くて臭い男の子ですが、いまはもう汚くて臭くありません。何分もしないうちに、むきたてのゆで卵のように、つややかでなめらかな肌をしています。
 着ているのはあいかわらずボロですが、そんなことは着替えればすむことです。
 男の子が笑いました。
「今日から、オレが健太郎だ」
 男の子の顔は、けんたろうくんとうりふたつになったのでした。
 けんたろうくんは、あとずさりました。
 じぶんそっくりの男の子が、すぐ目のまえにあらわれたのです。無理もありません。
 けんたろうくんは、もう一歩、うしろにさがろうとしましたが、できませんでした。
 足首をなにかにつかまれたのです。見おろしましたが、なにも見えません。でも、たしかに足首はつかまれているのです。
 ついにけんたろうくんは、恐怖に悲鳴をあげそうになりました。
 叫び声はでませんでした。なにかが首をしめたのです。
 なにかは、腕をつかみ、胴をつかみ、体中のあちこちをつかんできます。けんたろうくんは身動きできません。
「さようなら」
 けんたろうくんそっくりになった男の子は、にっこり笑って手をふりました。
 けんたろうくんの体がもちあげられます。空中にういているように見えます。
 目をむいたけんたろうくんが、なにもない空中に吸いこまれていきます。
 着ていた服や、クツが、ポロポロ落ちてきます。あちらの世界にいけるのは、けんたろうくん本人だけなのでした。
 けんたろうくんそっくりの男の子は、落ちた服に近づきます。服を着て、なにくわぬ顔で、けんたろうくんになりすますのです。
 いえ、こちらの世界では、この男の子がけんたろうくんなのでした。


「どういうわけか、自分が泥人形だということをわすれているらしいな。欠陥品か。耐用年数が近いからか。いったいどっちかな」
 帽子の男が、にやりと笑いました。
「どちらにしろ。すぐに壊す。欠陥品ということにしておこう」
 桑島健太郎は生唾をのみこんだ。壊す? なにを? 泥人形とはいったいなんのことをいっている?
 答えをだす前に、健太郎は走りだした。東屋の外に飛びだす。
 健太郎はすべってころんだ。水をふくんだ土がほおをこすった。ぱらぱらと、その体に雨が。こんなときにすべって転ぶとは、なんたるドジ。
「ドジなんかじゃないさ」
 男が東屋からでてきた。
「あちらの世界で訓練を受けた。オレは手をふれずに物を動かせる。転がせることくらいわけないさ」
 男の声をききながら、健太郎はにぎりこぶしをつくった。頭のなかの危険信号は、ずっと鳴りっぱなしだ。
「長かったぞ、十年は。お前がこちらの世界でオレになりすましてのうのうと生きているあいだに、本物のオレがどんな目にあっていたか、想像できないだろう」
 本物のオレ? 健太郎は上半身をおこして、男をにらみつけた。
 健太郎の顔で男は、
「十年前、お前に出会ってなければ、いや、ふれていなければ、こんな目にはあわなかったのにな」
 と、右手を肩の高さにあげた
「お前ら、泥人形の壊しかたは知っている」
 帽子の男がアクションをおこす寸前、健太郎は握り拳をふった。
 ふる動作の途中で、手をひらく。
 つかんでいた土が空中で拡散し、男の顔面をうった。
 健太郎は起きあがり、脱兎のごとく駆けだした。
「わたしがいるのよ」
 小島美琴の声だと判断するよりも早く、天地が逆転した。
 背中をしたたかに打ちつけたのは、次の瞬間だった。
 一瞬、息がとまる。
「わたしも、あちらの世界にいたのよ」
「お前にはもう関係ないことだがな」
 男の声が、すぐそばでした。
 行動をおこさなければならないとわかっていても、痛みで思うように体がうごかない。
 男が軽く息をはくのが聞こえた。
 胸をなにかが貫通したのを感じたのが、最後の感覚だった。
 雨はまだ、しとしとと降りつづけていた。
「この町の」
 小島美琴が、桑島健太郎の制服をひろいながら、
「燃えないごみの日って、いつなのかしらね」
「さあ、ね」
 帽子の男――いや、ほんものの桑島健太郎は、興味さなそうにいった。


 けんたろうくんは川の水で、体の汚れをおとしました。
 川の水もきれいとはいえませんが、自分の体についている黒いあかよりはましです。
 脳内で、オリジナルのけんたろうくんの情報が整理されていくのがわかります。服をきて、家に帰るころにはより完璧にに近づいているでしょう。
 けんたろうくんは川からあがると、服のあるところまで歩いていこうとしました。
「ん」
 と、みけんにしわをよせます。
 おかしいのです。なにがおかしいのかはっきりわかりませんが、川にはいるまえといまではなにかがちがっているのです。
 なにかがちがう。
 その違和感が、けんたろうくんをその場にあしどめさせてしまいました。
 けんたろうくんがもっと鈍感で、違和感に気づかなければ、あるいはもっとちがった結果がまっていたかもしれません。
 けんたろうくんが固まっていると、草かげから、なにかが飛びだしてきました。
 いえ、なにかではありませんでした。どろどろにとけた黒い液体――こじまさんのざんがいです。生きていたのです。なんという執念でしょう。
 けんたろうくんの動きも、けして遅くはありませんでした。感じた違和感が、こじまさんのざんがいが見えなかったことだと看破した瞬間には、すでに行動をおこしていました。
 しかし、こじまさんのざんがいは、それよりも早かったのです。体の大部分がとけ、体重がへっていたためでしょう。
「うげ」
 こじまさんが、けんたろうくんの口に飛びこみました。


 桑島健太郎と小島美琴が去ったのち、十五分ほどたっただろうか。
 黒い泥の山がもぞりと動いた。表面が雨にぬれ、流れる水に少しづつけずりとられている。ほうっておけば、水にとけていくだろう。
 しかし、濡れているのは表面だけだった。そのなかの本体が、もぞもぞと屋根のある東屋まで移動していた。
 十年前、健太郎の泥人形のなかに進入し、侵食して征服した小島美琴の泥人形だ。いや、その残骸であった。
 生きる、という意志であろうか。東屋の屋根の下へ、雨を逃れる。ナメクジのようにはいすすみ、柱の影にかくれる。
 それから、どれくらいたっただろうか。雨を逃れるように、一匹のノラ犬が東屋にはいってきた。
 小島美琴の残骸は、そのチャンスを見逃さなかった。柱の影からおどりでると、犬の口内へとすべりこんだ。


 桑島健太郎は頬に小さな痛みを感じた。
 クラスメイトのいたずらで、シャーペンの芯が投げつけられたわけではない。痛みを感じたのは左の頬だった。そちらがわには、窓しかない。
 蚊にでもさされたのだろうと、健太郎は気にもとめなかった。
 額ににじんだ汗をぬぐう。
 蚊にさされたことも、汗をぬぐうことも、ほんとうにうれしかった。あちらの世界では、蚊もいないし暑くもない。こちらにもどって半年たつが、毎日が充実していた。
 健太郎は窓のほうをむいた。夏の空を見ようとしたのだが、いつものとちょっぴり違う景色がそこにあった。
 校門にノラ犬が一匹たたずんでいた。
 ノラ犬はうらめしそうに上目づかいでにらんでいたかと思うと、どこかへトコトコと去っていった。

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