短編小説の最近のブログ記事

 清原憲史{きよはらのりふみ}は憤怒の形相で、店員にむかって枕を投げつけた。
 ナノテク技術を取りいれた最新枕が、豊満な胸にあたって跳ねあがる。
「お客様、どうなさいました?」
 店員は動じず、落下した枕をキャッチした。微笑さえ浮かべている。口紅が店舗の照明を反射して、赤く濡れ光った。
 清原は額の青黒くなった痣を指さし、大声でどなった。
「枕のせいだ! まともなのと交換しろ!」


 最近になり、清原はどれだけ睡眠をとっても、まるで寝た気がしなくなっていた。体の疲れはとれているが、睡眠欲が満たされないのはつらいと、頭を抱えていたのだ。
「そういうことで、昨日ここで買ったんだ」
 どなってすっきりしたのか、清原は落ちついた声で説明した。
「それはありがとうございます」
 店員に礼をいわれた。シミひとつない綺麗な笑顔からは、物に動じないぞというオーラがにじんでいた。クレーム処理に慣れていますという印象を受ける。
 ナノテク枕を買ったのは、「夢がふくらむナノテク技術」という売り文句に惹かれてだ。複雑に織り込まれたナノテク繊維が、頭にジャストフィットする助けとなるらしい。
 寝心地はよかった。うとうとしていたところまでは覚えている。その後、眠りに落ちたのだろう。夢を見ていた記憶がある。さすが、「夢がふくらむナノテク技術」である。
 だが、いきなり起こされてしまった。
 頭を強く押されたかと思った刹那、勢いもそのままに、タンスに額をぶつけたのだった。
「当店の枕と関係があるのでしょうか?」
「枕を変えた直後なんだから、関係ないわけないじゃないか。オレが考えるに、枕が元の形に戻った反動ではじかれたんだ!」
「それは大変失礼いたしました」
 店員が頭を下げると、肩で切りそろえられた黒髪が、はらりと流れた。
「ですが、お客様」
 店員が顔を戻しながら、耳のうえに髪をかきあげた。
「そのようなクレームは、ほかにございません。こういってはなんですが、お客様ご自身に問題があるのではないでしょうか?」
「はあ!? 責任逃れか!」
「いいえ、責任からは逃げません。なぜそうなったのかという原因を、責任をもって究明させていただきます」
 店員が不敵に微笑んだ。


 タイトスカートを張りつめさせたヒップが、左右に揺れ動いていた。店員が三脚を立て、ビデオカメラをセットしているのだ。
「念のため、本社に確認をとりました。やはり、同様のクレームはないということです」
「はあ。それはどうも」
 清原が布団のうえであぐらをかき、店員を横目で盗み見ながら返事をした。慣れ親しんだ寝室とは思えなかった。すでに怒りのエネルギーは霧散し、あいたスペースに戸惑いが滑り込んでいた。
 どういう話になったのか。くわしくは覚えていない。店員のペースに巻き込まれ、いつのまにやら、昨夜と同じことが起こるか確認することになってしまった。
 そして、この状態である。
「技術部の者とも話しました。おっしゃるとおり、ナノテク枕の復元力は、人間の頭をはじくぐらいの力があるそうです。ただし、頭が乗っているかぎり、枕が戻ることはない。物理的にありえないと、断言しております」
 ビデオカメラとノートパソコンをつなげ、
「セット終了です」
 と、店員がきっちり膝をそろえて正座した。
「事が起こるまで、ここで待機させていただきます。カメラは検証のため設置しました」
「いや、その」
「さあ! お眠りください」
 静かなる気迫に押され、清原は横になった。店からもって帰ってきた枕に頭をあずける。眠るために目を閉じるが、睡眠天使はいっこうにやってこなかった。まだ午後九時をすぎたばかりなので無理もない。しかも、まぶたを透かして、照明の光が見えるしまつだった。
「店員さん、すみませんが」
 目をあけた清原の眼前に、そろえられた膝頭があった。とまどってそらした視線の先に、店員の微笑が待ち受けていた。
 清原は咳払いを挟んでから、
「眩しいから照明を切ってもいいですか?」
「ダメです」
 にべもなく、ぴしゃりとやられた。
「暗くすると、カメラに映りません。ですが、眠れないというのも問題ですね。しょうがありません。台所をお借りします」
 立ち上がった店員が、隣室へと姿を消した。しばらくして、レンジが「チン」と鳴る。
「お待たせしました」
 鼻腔を甘い匂いにくすぐられた。
「これをお飲みください」
 差しだされたマグカップにはミルクが満たされ、ほんのりと湯気が立っていた。
「体が温まって、すぐに眠くなりますよ」
 清原は店員にいわれるまま、素直にホットミルクを飲んだ。横になり、まぶたを閉じる。
「では、眠くなるまでお話をしましょう」
「はあ」
「確認です。額をぶつけたとき、眠っていたんでしたよね?」
「ええ」
「横になっていただけでしょうか? それとも、完全に眠っていた?」
「うとうとした後でしたし、夢を見ていたような気がするので、眠っていたと思います」
「どんな夢を見ていましたか?」
「よく覚えてませんが、手足をのばしてのびのびしていたと思います。――あの、こんな話をして意味あるんですか?」
「確認という退屈で単調な話なので、眠りやすいかなと思いましたもので。それに、睡眠薬が効くまで間がもちませんし」
 睡眠薬という単語に、清原は跳ね起きようとし――できなかった。思うように動けない。瞼も重い。意識は際限なく希薄に拡散し霧消。
「眠れないということでしたので、さきほどのホットミル――」
 店員がいい終わるよりも早く、清原は眠りの沼に沈んでいった。


 目が覚めたのは、跳ばされた瞬間だった。
 またか! と額を両手でガードしようとするが、起き抜けでは動きがにぶすぎた。緊張で体を固くしたが、想像した痛みはやってこなかった。やわらかく跳ね返されただけだ。
 布団のうえに尻もちをついた清原は、目をしばたたいた。ふくよかな胸をそらした店員が、タンスの前に立っていた。
「まったく、驚きだわ」
 あごに人差し指をあて、何事か考えているふうに、ビデオカメラまで歩いていく。
「映っていれば、いいのだけれど」
 店員はあごからはなした指で、カメラの停止ボタンを押した。
 清原は座り込んだ姿勢で、彼女の動向を見守るしかできなかった。声をかけようとしても、なにをいえばいいのかわらず、喉からは息しかでてこなかった。
 店員がカメラをテレビに接続し終わり、こちらをふりむいた。
「原因がわかりました」
 再生ボタンが押された。
「お客様がどなり込んできたとき、おしゃっていましたね。最近は寝た気がしなくなったと。でも、体の疲れはとれていると」
 モニタの映像は、ミルクを飲んだ直後まで進んだ。
「眠る前の話では、夢を見ていたような気がするとおしゃっていた。手足をのばしてのびのびしていた、と。自由を満喫していたのでしょう――見て、ここからよ」
 清原は唾を飲み込み、画面に見いった。
「うぐ」
 喉から、声にならない声が絞り出された。
「技術部のいったとおりでした。枕に頭が乗っているかぎり、枕が元の形に戻ることはない。逆にいえば、頭が乗っていないとすれば、枕は元に戻るということ」
 モニタの映像では、たしかに枕が元に戻っているのが確認できた。跳ね飛ばされ、店員の胸に跳ね返される自分を見ながら、清原は体を震わした。
「そんな、まさか……」
「信じられないのも無理ありません。ですが、事実です。そして、やはり。枕のせいではなく、あなた自身に原因があった」
 店員はいい終わると、機材を片づけはじめた。手際よくおおきなカバンに収めていく。
「この枕は返品されたほうがいいでしょう」
 店員が枕の代金を置き、かわりに枕を片手につかんだ。
「では、失礼いたします」
 一礼し出ていった。
 静寂が支配する部屋の中、清原は自分が見た映像をもう一度思い出した。
 自分の体から白いもやのようなモノがでて、手足を大の字にひろげるのを。
 体という殻から開放された魂が、のびのびとしている様を。
「夢がふくらむナノテク技術か」
 ポツリつぶやく。
 ナノテク枕は物体としての頭ではなく、魂の頭が離れたことを感知し元の形に戻った。
 清原はそう納得し、ナノテク技術に改めて舌を巻いたのだった。


 店員は機材を所定の部署に返した。
「お疲れ様です」
 労いの言葉をかけてくる担当に、片手をあげてこたえ、更衣室へむかう。その背に、
「ああ、それと三村さん」
 と、担当の渋い声があたった。
「パソコンやビデオカメラは、もっと丁寧にあつかってくださいよ。三脚やらといっしょにカバンにしまってるじゃないですか」
「気をつける」
 三村と呼ばれた店員は、更衣室にはいった。ため息をつきながら服を脱ぎはじめる。
 今日も不良品に関する苦情を処理した。返品を幽体離脱など嘘八百。映像に細工するなどは、パソコンを使えばたやすかった。
 絵空事を躊躇なく口にできるという才。それゆえにクレーム係にされたが、もう疲れた。
 ウソをつくこがではない。
 店員は服をすべてぬぐと、両胸のふくらみをつかんだ。
「肩こるんだよな、これ」
 店員がやおら胸のふくらみをひねった。
 あっけなくとれた。
 さしたる感情の起伏もなく、ヒップにも手をかけ、同じようにむしりとる。手は首のつけ根あたりに移動し、顔の皮をめくっていく。
 光にさらされたのは、男の顔であった。カツラはいつのまにか床に落ちている。
「ふう、すっきりした」
 声も男のものであった。いまはいだ顔は、首のところに変声機がついているのだ。
 バストとヒップはスタイルアップツールで、顔に装着していたものは変装ツールだった。いずれも試作品だが、このテストがうまくいけば、製品化もありうるかもしれない。
 クレーム処理係は女性のほうがやりやすいが、店内でクレーム処理に耐えられる女性はいなかった。返品を受けつけるくらいならだれでもできるが、口コミで不評が広がらないようにするためには経験が必要なのだ。
 本社の開発部から、二種の試作品が届けられたのはごく最近だった。テストをかねて、使用させられているというわけである。
「夢がふくらむナノテク技術か」
 安易に鼻の下をのばせなくなったなと苦笑しながら、店員はつぶやきを落とした。

 とっても汚くて、とっても臭いと、けんたろうくんは思いました。
 川原の草むらにたおれている男の子のことです。
 よごれてまっ黒の体に、ぼろきれをまとわりつけています。ちかくをハエが飛んでいます。
 ううううう
 と、男の子がくるしそうにうなりました。
 けんたろうくんはお母さんの言葉を思いだしました。
「こまっている友だちがいたら、助けてあげないとだめよ」
 お母さんはこうもいいました。
「服がよごれるようなことしちゃだめよ」
 男の子をたすけると、服がよごれてしまいそうです。男の子は汚くて、臭いからです。
 お母さんのいいつけは、どうやっても守ることができません。
 けんたろうくんは、少し考えて、じぶんの好きにするようにしました。
 汚くて臭い男の子に近づいていきます。
 助けるといっても、どうやればいいのかわからないことに気づきました。
 とりあえず、けんたろうくんは男の子の体にふれて、ゆらしてみました。
 男の子が目をさましました。


 桑島健太郎{くわしまけんたろう}は頬に小さな、しかし無視できない痛みを感じた。
 クラスメイトのいたずらで、シャーペンの芯が投げつけられたわけではない。痛みを感じたのは左の頬だった。そちらがわには、窓しかない。
 虫刺されでもないだろう。教室内でときおり鼻をすする音がするくらいだ。震えるほどではないが、この季節、二階まで飛ぼうという元気な虫はいない。
 二度目のチクリがきた。
 左頬をなでる。
 あと五分で、退屈な古文の授業が終わる。頬がどうなっているか、鏡で確認したほうがいい。
 だめだ。昼休みだった。購買に行って、カツサンドを買わなければいけない。
 鏡かカツサンドか。
 健太郎は、どちらにしようか頭をひねった。
 また、チクリ。
 さっきより痛い。
 窓のほうをむいた。いつもとちょっぴり違う景色がそこにあった。曇り空のことではない。校門に、ふたりの人物が立っていたのだ。
 ひとりは黒髪を腰までのばした女子だ。見覚えのある制服は、海鳴高校のものだろう。教室からは距離があって顔はよく見えないが、きっと美形に違いない。立っているだけで、さまになっている。美女でなければウソだ。
 もうひとりの男は、帽子を目深にかぶっているので、人相はまったくわからない。こちらは夕艶高校の、つまりこの学校の、制服を着ている。
 チャイムが鳴った。
 男が帽子をかすかにあげた。
 あの痛みが、おでこに刺さった。
 教室内の喧騒をかすかに耳に感じながら、桑島はおでこをさすった。
 わかった。
 小さな、しかし無視できない痛みは、あの男の視線が刺さっていたのだった。


 汚くて臭い男の子は、元気になりました。
 どうして元気になったのかはわかりません。
 けんたろうくんは、あの日から、給食のパンをのこして、川原にもってくるようになりました。男の子にあげているのです。
 男の子の名前はわかりません。うー、とか、あー、とかしかしゃべらないからです。
 顔のあちこちが、おおきくふくらんでいて、じゅぶじゅぶと黒い汁がでています。男の子が汚くて臭いのは、その汁のせいです。
 どこからきたのかもわかりません。ぼろきれを体にまいているのは、服がないからでしょう。
 汚くて臭い男の子は、草むらに寝てしまいました。パンを食べるといつもそうです。
 けんたろうくんは、ぼんやりしていました。きょうは体育で、さかあがりができませんでした。
「くわしまくーん!」
 女の子の声に、ふりかえります。クラスメイトのこじまさんです。かわいくて、いいにおいのする女の子です。下のなまえは、みことです。こじまみことさんです。
 こじまさんが、川原へおりてきます。両目の下に、それぞれほくろがあります。かわいいです。
 こじまさんもさかあがりは苦手です。だから、なかよくなれました。
「なにして……」
 こじまさんの声がとぎれます。息をすいこむ音がきこえました。
 けんたろうくんはふりむきました。
 汚くて臭い男の子がたちあがっていました。


 校舎からでて、桑島健太郎は空を見上げた。昼間よりも、雲が黒い。
 雨が降るか、降らないか。
 健太郎はちょっと考え、降らないことに決めた。いくら考えても、天気がどうなるかはわからない。自分の好きなほうにしてしまっていいだろう。
 帰宅していく生徒たちが、校門をぬけていく。健太郎もその群に合流して、校外へとでた。左右を見回す。あのふたりがいるかもしれないと思ったのだが、杞憂だった。
 いったいあの男女は何者だったのか。痛みを感じるほどの強い視線。男はいったいなにを見ていたのか。
 自分には関係ないさ、と健太郎は歩きだした。数歩といかないうちに、アスファルトに黒い点がついた。見る間に数がふえていく。
 かるいため息をついて、かばんを頭の上においた。雨にはぬれたくなかった。軽く駆けて家路を急ぐ。雨足のほうがはやかった。たちまち本降りになって、追いたててくれる。
 健太郎はたまらず、帰宅途中にある公園へ飛びこんだ。園内の何ヶ所かに、東屋があった。そのひとつに駆けこむ。
「本能的に雨をいやがるだろうという予想」
 女の声がした。
「あたり、ね」
 東屋の屋根を支える太い柱。その裏側から声がした。
 無視するか、声をかけるか。
 健太郎が決定する前に、柱の影からその女がでてきた。
「あ」
 無意識に、口から声がもれた。
 彼女も雨にあったのか、黒髪が艶をおびて腰まで流れていた。海鳴高校の制服に身をつつんだ美女は、校門に立っていた女性と同一人物だった。
「はじめまして」
 女が目をほそめた。ミステリアスに見えるのは、泣きボクロが両目にあるせいだろう。
 女が、今度は、唇のりょうがわをつりあげて笑った。
「小島美琴よ。よろしくね」


 こじまみことさんが、おおきく目をあけて、一歩うしろにさがりました。汚くて臭い男の子におびえたのです。
 男の子は顔のはれものから、じゅぶじゅぶと黒い汁をだしているのです。いやがられて当然です。
 けんたろうくんは、こじまさんに男の子のことを話そうとしました。
 できませんでした。
 男の子のほうが早かったのです。
 迷うことなくこじまさんに近づき、右手をまっすぐに突きだしました。
 なにをするつもりなのかわからなかったので、けんたろうくんは邪魔ができませんでした。あっと思ったときには、もう男の子の腕が、こじまさんの胸から背中へ貫通していました。。
 けんたろうくんは、ショックでピクリとも動けませんでした。
「邪魔、だ」
 だれの声かわかりませんでした。
 でも、ここには二人しかいないし、けんたろうくんはしゃべっていませんでした。
「やっと、話せる、ように、なった」
 汚くて臭い男の子が、腕を引きぬきました。こじまさんがくずおれます。
「心配、するな。この女は、本物じゃ、ない。本物は、あちらの世界、にいるはずだ」
 男の子がいい終わらないうちに、たおれたこじまさんが変わっていきます。顔のあちこちが、大きくふくらみはじめ、じゅぶじゅぶと黒い汁がでています。目玉からぷちゅぷちゅと汁がでて、どろりとこぼれ落ちました。どんどん汚くて、臭くなっていきます。手や足もどろどろにとけてます。


 桑島健太郎は目線をさまよわせた。
 こじまみこと。その名前が記憶のどこかにひっかかる。どこかで聞いたことがあるような気がした。
「わたしね」
 困惑もおかまいなしに、小島美琴がしゃべりだした。目をとじ、腕をひろげて、おおきく息をすう。微笑がうかんだ。
「こちらがわの空気を吸うのは、ほんとひさしぶりなのよ。洗われるわ、肺のなかがね」
 健太郎はあとずさった。この女、ちょっとおかしいんじゃないかということに、いまさらながら気づいた。
「怖がらなくてもいいわ。気がふれたわけじゃないから」
 小島が目をあけた。
「わたし、ずっとあちらの世界にいたのよ。小さなころからずっとね。つい最近なのよ、帰ってきたのは」
 小島が東屋の屋根から手をさしだして、雨粒をうけた。
「これから、家に帰るとこ。十年ぶりになるかしら」
「えっと……」
「だれかのせいで、これから大変よ。十年も行方不明になってた言い訳をしんじさせないといけないんだものね」
「あの……ぼくはそろそろ」
 雨に濡れるのはいやだが、これ以上ここにはいたくない。ひきつる頬にそんな思いをこめ、健太郎は体を反転させた。
「ほんとは身代わりがいるはずだったんだけど、だれかに壊されちゃったのよね。ほんと、こまっちゃうわ」


 こじまさんが、どろどろとまるで泥のような固まりになってしまいました。彼女のふくだけが、泥のなかにうもれています。
「嫌い、なんだよ」
 汚くて臭い男の子がいいました。
「自分と、おなじものが、嫌い、なんだよ。同属嫌悪、ってやつかな」
「あ、あああ、あ、ああ……」
 けんたろうくんは、言葉をだせませんでした。いったい、なにがどうなって、こうなっているのでしょう。まったくわかりません。
「しかし、身代わりを、こわした」
 けんたろうくんのとまどいをよそに、汚くて臭い男の子はしゃべりつづけました。
「あったことはないが、本物の小島美琴、あとで、きっと、苦情をいってくるだろうな」


 東屋の外へ駆けだそうとした健太郎の背中に、その言葉がぶつかった。
「昔、あちらの世界から、こちらの世界へ、男の子がひとりやってきた」
 健太郎はたたらをふんだ。
「身代わりとしての役目をはたすためにね。こちらの世界へやってきて、最初にさわった人間をコピーして、すりかわるために」
 なにが琴線にふれたのか、健太郎はふりむいた。
 小島美琴が右目の泣きボクロにふれ、
「もともとあちらの世界の泥が原材料だから、姿かたちをまねるのは簡単なのよ。粘土細工みたいなものね。すごいのは、言葉や性格もコピーできるってこと。どういう原理かは、わたしは知らされてないわ」
 健太郎の頭に浮かんだ言葉はふたつだった。
 信じる、と、信じない。
 信じないのは簡単だ。そんなバカな話と一笑にふせばいい。信じることも簡単だ。美人の発するオーラにのまれればいい。
 健太郎はどちらも選ばなかった。いつものように、好きにしたわけでもなかった。
 ただ、理解したのだった。彼女の言葉にまちがいはないと。
 靴の音が背後でした。
 健太郎はふりかえる寸前、小島のくちびるのはしがつりあがるのが見えた。
 東屋内に、男がはいってきていた。夕艶高校の制服だ。帽子を目深にかぶっているので、人相はまったくわからない。
「よお、ひさしぶり」
 男が右手をあげた。どういうわけか、その声は健太郎にそっくりだった。
「やっと会えたな」
「あ、あなた……」
 健太郎は一歩うしろにしりぞいた。頭のなかで、危険信号が明滅していた。
「どういうわけか、すっかり自分の記憶をなくしてるみたいだな」
 健太郎にそっくりの声で、男がいった。
「オレがお前をうらんでいる理由なんて、想像がつくまい」
「う、うらむ? ぼくを?」
 男はすぐには答えず、もったいぶった動作でつばに手をかけた
「ああ、そうだ。お前をうらんでいる」
 男が帽子をはずした。
「うらんでいるぞ。名なしの泥人形め」
 と、健太郎をゆびさした男の顔は、健太郎とうりふたつだった。


 はあ、はあ、はあ。
 けんたろうくんは、自分の息の音をききました。耳のおくで、血もどくんどくんといっています。
 こじまさんのことにショックを受けたのもそうですが、それだけではありません。
 汚くて臭い男の子の顔が、どんどんかわっているからです。
 顔にできていたはれが、ぼろぼろとかさぶたがはげるように落ちていきます。でていた黒い汁も乾燥して風にとばされていきます。
 汚くて臭い男の子ですが、いまはもう汚くて臭くありません。何分もしないうちに、むきたてのゆで卵のように、つややかでなめらかな肌をしています。
 着ているのはあいかわらずボロですが、そんなことは着替えればすむことです。
 男の子が笑いました。
「今日から、オレが健太郎だ」
 男の子の顔は、けんたろうくんとうりふたつになったのでした。
 けんたろうくんは、あとずさりました。
 じぶんそっくりの男の子が、すぐ目のまえにあらわれたのです。無理もありません。
 けんたろうくんは、もう一歩、うしろにさがろうとしましたが、できませんでした。
 足首をなにかにつかまれたのです。見おろしましたが、なにも見えません。でも、たしかに足首はつかまれているのです。
 ついにけんたろうくんは、恐怖に悲鳴をあげそうになりました。
 叫び声はでませんでした。なにかが首をしめたのです。
 なにかは、腕をつかみ、胴をつかみ、体中のあちこちをつかんできます。けんたろうくんは身動きできません。
「さようなら」
 けんたろうくんそっくりになった男の子は、にっこり笑って手をふりました。
 けんたろうくんの体がもちあげられます。空中にういているように見えます。
 目をむいたけんたろうくんが、なにもない空中に吸いこまれていきます。
 着ていた服や、クツが、ポロポロ落ちてきます。あちらの世界にいけるのは、けんたろうくん本人だけなのでした。
 けんたろうくんそっくりの男の子は、落ちた服に近づきます。服を着て、なにくわぬ顔で、けんたろうくんになりすますのです。
 いえ、こちらの世界では、この男の子がけんたろうくんなのでした。


「どういうわけか、自分が泥人形だということをわすれているらしいな。欠陥品か。耐用年数が近いからか。いったいどっちかな」
 帽子の男が、にやりと笑いました。
「どちらにしろ。すぐに壊す。欠陥品ということにしておこう」
 桑島健太郎は生唾をのみこんだ。壊す? なにを? 泥人形とはいったいなんのことをいっている?
 答えをだす前に、健太郎は走りだした。東屋の外に飛びだす。
 健太郎はすべってころんだ。水をふくんだ土がほおをこすった。ぱらぱらと、その体に雨が。こんなときにすべって転ぶとは、なんたるドジ。
「ドジなんかじゃないさ」
 男が東屋からでてきた。
「あちらの世界で訓練を受けた。オレは手をふれずに物を動かせる。転がせることくらいわけないさ」
 男の声をききながら、健太郎はにぎりこぶしをつくった。頭のなかの危険信号は、ずっと鳴りっぱなしだ。
「長かったぞ、十年は。お前がこちらの世界でオレになりすましてのうのうと生きているあいだに、本物のオレがどんな目にあっていたか、想像できないだろう」
 本物のオレ? 健太郎は上半身をおこして、男をにらみつけた。
 健太郎の顔で男は、
「十年前、お前に出会ってなければ、いや、ふれていなければ、こんな目にはあわなかったのにな」
 と、右手を肩の高さにあげた
「お前ら、泥人形の壊しかたは知っている」
 帽子の男がアクションをおこす寸前、健太郎は握り拳をふった。
 ふる動作の途中で、手をひらく。
 つかんでいた土が空中で拡散し、男の顔面をうった。
 健太郎は起きあがり、脱兎のごとく駆けだした。
「わたしがいるのよ」
 小島美琴の声だと判断するよりも早く、天地が逆転した。
 背中をしたたかに打ちつけたのは、次の瞬間だった。
 一瞬、息がとまる。
「わたしも、あちらの世界にいたのよ」
「お前にはもう関係ないことだがな」
 男の声が、すぐそばでした。
 行動をおこさなければならないとわかっていても、痛みで思うように体がうごかない。
 男が軽く息をはくのが聞こえた。
 胸をなにかが貫通したのを感じたのが、最後の感覚だった。
 雨はまだ、しとしとと降りつづけていた。
「この町の」
 小島美琴が、桑島健太郎の制服をひろいながら、
「燃えないごみの日って、いつなのかしらね」
「さあ、ね」
 帽子の男――いや、ほんものの桑島健太郎は、興味さなそうにいった。


 けんたろうくんは川の水で、体の汚れをおとしました。
 川の水もきれいとはいえませんが、自分の体についている黒いあかよりはましです。
 脳内で、オリジナルのけんたろうくんの情報が整理されていくのがわかります。服をきて、家に帰るころにはより完璧にに近づいているでしょう。
 けんたろうくんは川からあがると、服のあるところまで歩いていこうとしました。
「ん」
 と、みけんにしわをよせます。
 おかしいのです。なにがおかしいのかはっきりわかりませんが、川にはいるまえといまではなにかがちがっているのです。
 なにかがちがう。
 その違和感が、けんたろうくんをその場にあしどめさせてしまいました。
 けんたろうくんがもっと鈍感で、違和感に気づかなければ、あるいはもっとちがった結果がまっていたかもしれません。
 けんたろうくんが固まっていると、草かげから、なにかが飛びだしてきました。
 いえ、なにかではありませんでした。どろどろにとけた黒い液体――こじまさんのざんがいです。生きていたのです。なんという執念でしょう。
 けんたろうくんの動きも、けして遅くはありませんでした。感じた違和感が、こじまさんのざんがいが見えなかったことだと看破した瞬間には、すでに行動をおこしていました。
 しかし、こじまさんのざんがいは、それよりも早かったのです。体の大部分がとけ、体重がへっていたためでしょう。
「うげ」
 こじまさんが、けんたろうくんの口に飛びこみました。


 桑島健太郎と小島美琴が去ったのち、十五分ほどたっただろうか。
 黒い泥の山がもぞりと動いた。表面が雨にぬれ、流れる水に少しづつけずりとられている。ほうっておけば、水にとけていくだろう。
 しかし、濡れているのは表面だけだった。そのなかの本体が、もぞもぞと屋根のある東屋まで移動していた。
 十年前、健太郎の泥人形のなかに進入し、侵食して征服した小島美琴の泥人形だ。いや、その残骸であった。
 生きる、という意志であろうか。東屋の屋根の下へ、雨を逃れる。ナメクジのようにはいすすみ、柱の影にかくれる。
 それから、どれくらいたっただろうか。雨を逃れるように、一匹のノラ犬が東屋にはいってきた。
 小島美琴の残骸は、そのチャンスを見逃さなかった。柱の影からおどりでると、犬の口内へとすべりこんだ。


 桑島健太郎は頬に小さな痛みを感じた。
 クラスメイトのいたずらで、シャーペンの芯が投げつけられたわけではない。痛みを感じたのは左の頬だった。そちらがわには、窓しかない。
 蚊にでもさされたのだろうと、健太郎は気にもとめなかった。
 額ににじんだ汗をぬぐう。
 蚊にさされたことも、汗をぬぐうことも、ほんとうにうれしかった。あちらの世界では、蚊もいないし暑くもない。こちらにもどって半年たつが、毎日が充実していた。
 健太郎は窓のほうをむいた。夏の空を見ようとしたのだが、いつものとちょっぴり違う景色がそこにあった。
 校門にノラ犬が一匹たたずんでいた。
 ノラ犬はうらめしそうに上目づかいでにらんでいたかと思うと、どこかへトコトコと去っていった。

 最近、おっさんと話していないなと思っていたが、家の前を通って納得した。
 葬式をやっていたのだ。直感で、あのおっさんが死んだのだと理解できた。
 ぼくは喪服を着た人びとから目をそらし、正面だけを凝視して、急ぎ足で通りすぎた。
 角を曲がったあと、首をすくめてうしろをふり返る。おっさんの霊がついてきてやしないかと心配したが、暗い道がのびているだけで、おばけのたぐいどころかひとっこひとりいなかった。
 おっさんにたいして、うしろめたい思いがあるわけではない。ぼくは子供のころから霊感が強く、幽霊にも好かれるようなので、もしやと心配しただけだ。
 徒歩で出社しているぼくは、ほぼ毎日といっていいくらい、あのおっさんと朝の挨拶をかわしていた。決まった時間に家の前に立ち、微笑みながらたたずんでいるおっさんは、だれかがそばを通るたび、「おはよう」と会話の口火をきるのだった。
 定年退職で手持ち無沙汰になり、出社時間にだれかれともなく挨拶するようになったおっさん。
 ぼくはそう理解していた。柔和な雰囲気を漂わせているだけでなく、会話のなかに折り目正しさがうかがえたので、きっと部下には慕われていただろう。
 おっさんの葬式を目撃してから数日は、別の道を通って出社した。遠回りになってしまうが、半透明のおっさんがいつも通りに挨拶してくるような気がして、脚が自然と別の道を選んでいた。
 だが、一週間もたつと、さすがに恐怖も薄らぎ、通いなれた道で出社することにした。
 それでも、首をギプスで固定したみたいに真正面だけを見すえて、おっさんの家を通りすぎる。
 なにもおこらなかった。「おはよう」の声もない。
 幽霊に遭遇しなくてすみ、ぼくはほっとしながらも、寂しさを感じていた。
 脚をとめてふりむいた。家の前にはやはりなにもいなかった。
 おっさんのいたのと同じ場所に立って、同じ方向をむいてしまったのは、だから寂しさを紛らわすためだったかもしれない。
 ぼくは驚きで息を飲んでしまった。霊感が強いせいで、幽霊に遭遇したのは一度や二度ではないが、こんなのは初めてだった。
 道を挟んだ向こう側に、全裸の女が立っていたのだ。半透明なのは幽霊だからだろうが、彼女の肉感的な体に、そうと知りつつ生唾を飲み込んでしまった。
 全裸幽霊は隣り合った家の隙間にいた。左右の壁に肩をこすりつけるようにすれば、ひとひとりがなんとか通れそうなほど細い路地である。
 彼女は顔に笑顔を貼りつけたまま、狭い場所にもかかわらず、器用に踵を返した。おおきな、しかし形のいいヒップをふりながら、しゃなりしゃなりと奥へむかっていく。行きどまりにつくと、右へと曲がった。幽霊特有の能力で壁をすりぬけたわけではなく、路地自体が右に折れているらしい。
 ぼくは上半身をひねって、背後を確認した。全裸に誘われて前に出ていたので、さっきまで立っていた位置が視界にはいってくる。
 おっさんが生前立っていた場所だ。手持ち無沙汰で立っているものだと思い込んでいたが、もしかしたら、女性の全裸幽霊を眺めていただけなのかもしれない。「おはよう」という挨拶も、そうやって視線を自分に集めて、路地のほうへ目をむけさせないためか。
「独占欲」
 ふいに口をついてでた言葉だった。「老いてなお盛なり」とまで声にすれば、「まだ老いたつもりはない」と、おっさんが化けてでてくるかもしれない。
 ぼくは左右を見回して、だれかいやしないか確認した。細い路地にはいる直前に、もう一度、周囲をうかがった。だれかがいれば深追いをやめようと考えていたが、ひとっこひとりいなかった。


 両肩を壁にこすりながら、ぼくは路地の奥をにらんでいた。
 見上げれば、細い空をうかがえただろうが、視線を切るのはためらわれた。得体の知れないものが飛び出てきやしないかと用心しながら、奥をめざしていく。
 余人がいれば、不思議に思うかもしれない。葬式から視線をそらすほど霊を恐がっていたのに、どうして路地にはいったりしたのだろうかと。幽霊の裸に魅入られた、という理由を想像されるとしたらショックだ。もてる男ではないが、そこまで飢えてもいない。
 全裸幽霊に驚いたのは、すっぱだかだったからだけではない。なにも気配がしなかったのだ。
 この世のものではないから当然だといわれるかもしれないが、精霊のたぐいとは違い、幽霊が出現するときには、言葉にはできないなにかしらの気配が発生するのだ。ぼくにはわかる。その気配がなかったので、気になってあとを追っているのだった。
 くり返しになるが、けして色香にまどわされたわけではない。彼女いない暦は二十五年になるが、服を着ていないぐらいで、未知の存在にのこのこついていくほど、すけべではないのだ。
 路地が右に折れる手前で、ぼくは脚をとめた。曲がり角から、そうっと、顔を半分だけだす。下半身はうしろに引きぎみで、はたから見れば情けない姿だろう。
 曲がった道の先には、なにもなかったし、なにもいなかった。細い路地はまっすぐのびて、ブロック塀に突き当たっている。そこから左に曲がっているようだ。
 ぼくは来た道をかえりみた。
 逡巡は五秒ほどだったろうか。脚が奥へ踏み出した。
 道が折れるたびに、なにかいるかもしれないと恐々確認しながら、へっぴり腰で進んでいく。
 そうして、何度か曲がり、そこへ辿りついた。東西南北、四方向を家に囲まれた狭い土地だった。ひろさは二畳ほどだろうか。地図にも載っていなさそうな、小さな空き地である。土地の権利関係がどうなっているのか不思議だった。まわりを囲んでいる家主のだれかが、所有しているのだろうか。
 その空き地には、雑誌がうず高く積もって小山を作っていた。高さは身長を越えるほどもあるだろうか。
 一冊、手にとってみた。表紙には、布地の少ない水着を着た女性が、官能的なポーズをとっている。ページをめくれば、全裸の女性ばかりだった。ほかの雑誌も同様で、服を着ている女性はひとりもいなかった。
 いわゆるエロ本である。
 東側にある家の二階で、カーテンが揺れるのが見えた。
 ぼくは路地に引き返し、かがんで身をひそめた。
 二階の窓がひらき、中学生くらいのにきび面の男が顔をだした。
 なにをするのかと注視していると、彼は雑誌を数冊、窓外に放りだした。エロ本の山に、新たに積もる。
 なにが起こったのか。しばし考えをめぐらした末、ぼくは膝を打った。
 にきび面はエロ本の処分に困り、家の裏に捨てていたわけだ。ここならひと目につかないし、四軒のうちどの家から捨てられたのか判別がむずかしい。
 一冊二冊ならいい考えかもしれないが、さすがに小山になるほど捨てたのでは、いずれおおごとになろう。中学生という勢いのある年頃を考えても、度がすぎていた。
 カーテンが閉まったのを確認してから、ぼくはまた、エロ本山に近づいた。
 全裸の幽霊に誘われて待っていたのがこれでは、納得しがたかった。あの女性の出現は、なにを意味していたのか。
 手がかりの片鱗でもないかと期待し、適当なエロ本を手にとってページをひらいた。
 全裸の幽霊がそこにいた。半透明の体が小さくなっているが、形のいいヒップをふりふり、雑誌のなかでポーズをとっている。
 ぼくはあっけにとられて、口をポカンとあけるしかできなかった。
 全裸幽霊は魅力的な笑みを浮かべてから、紙ににじむようにして消えてしまった。あとには、下着姿の女がぼんやりと立っているグラビアが残るのみ。
 そこでようやっと、ぼくは気づけた。幽霊だとばかり思っていたが、その実、エロ本の精霊だったのだ、と。
 エロ本は見られてなんぼ。だれの目にもふれない場所に打ち捨てられるのは、本望ではないはずだ。だから、だれかの視線が欲しくて、エロ本の精が出現した。
 おっさんも知っていたにちがいない。エロ本の精は、半透明なこと以外、いたって魅力的な裸体なので、失くすのはおしいと思ったのだ。だから、このゴミの山を見逃している。
 ぼくも、おっさんにならおう。
 回れ右をしてきた道を引き返した。これから毎朝、決まった時間に路地の入り口を見つめるようになるだろう。

 クリスマスケーキは泣いた。
 恋人のモンブランがつぶれてしまったからだ。
 同じケーキ職人に作られたとわかり、ふたりは意気投合した。つきあいはじめるのに時間はかからなかった。クリスマスイヴの今日まで、なんの問題もおこらなかったというのに……。
 にもかかわらず、モンブランはつぶれてしまった。店員が段差を踏みはずし、モンブランもろとも床に転倒した。栗もクリームもスポンジケーキもぐちゃぐちゃにまざりあい原型すらとどめていなかった。
 クリスマスケーキは店員の胸倉をつかんで壁へ押しつけた。モンブランをかえせと、血を吐くように叫んだ。店員は目をそらして口を閉ざした。なにもいわない。いえるわけはないのだ。
「そのへんにしておけ」
 店のマスターに肩をつかまれた。
「モンブランなんて星の数ほどいるだろ。別のモンブランを用意してやる。もっと栗の輝きが……」
 マスターの戯言をみなまで聞かず手をふり払った。つぶれたモンブランを抱きあげ無言で出口をぬける。
「おい! クリスマスケーキ!」
 マスターの声が背中にあたった。
「お前はクリスマスのためだけに生まれてきたんじゃないのか! それを放棄するのか!」
 言葉が胸に刺さる。イヴの日にクリスマスケーキが店からでていってどうするというのか。存在理由を自分で否定しているのとかわらない。
 ――なんのために生まれてきたのか。
 それは自問であった。しかし、答えはとうにでていたのではなかったか。
 クリスマスケーキは走った。モンブランを抱いて駆けていく。自棄になったのではない。モンブランを助けるあてを目指しているのであった。
「ひったくりだ!」
 叫び声と同時に周囲がざわめいた。
 前方の人垣を押しのけて、ジャンパー姿の男が姿をあらわした。ブラウンのハンドバッグをつかんでいる。
「どけっ!」
 男の恫喝にクリスマスケーキはすなおにしたがった。まかりまちがってひったくりと乱闘にでもなったら、抱きかかえているモンブランがもっとつぶれてしまうかもしれないから。
 だから、クリスマスケーキはひったくりの進行方向からしりぞいたのだ。
 ただし、右足だけは動かさなかった。
「うおっ!」
 残した足に、ひったくりがつまずいた。もんどりうって倒れる。無防備なわき腹を思いっきり蹴ってやった。
「ふぎゃ!」
 激痛でしばらく動けないだろう。あとは警察の仕事だ。
 はらはらと様子を見守っている初老の婦人がいた。ハンドバックは彼女のものだろう。クリスマスケーキはひったくりからハンドバックを取りあげ、婦人へ手渡した。
「あの……」
 婦人の言葉に片手をあげるだけでこたえ、クリスマスケーキはふたたび走りだした。
 ケーキ職人の元についたのは、それから一○分後だった。
「やるだけはやってみる。保証はできんぞ」
 ケーキ職人のいかめしい顔が、さらにいかめしくなった。しわも深くなる。クリスマスケーキの頼みは、それほどの難題だということか。
「だが、全力でモンブランをよみがえらせてやる!」
 その断言は先の言葉とは矛盾していた。いや矛盾ではない。職人の意気込みであった。
 クリスマスケーキは深々と礼をした。頭をあげたときにはすでに、モンブランと職人の姿は奥の厨房へと消えていた。
 自分にできることはすべてやった――と緊張をゆるめるにはまだ早かった。まだなにかできるような気がした。その感情は錯覚なのだろう。できることなどなにもない。職人を信じて待つしかない。だが、なにかやっていないと心が張り裂けそうだった。
 クリスマスケーキは祈った。いままで祈ったことはない。だが、祈った。それしかできないから。
 扉がひらいた。厨房の扉ではなく出入り口のほうだ。
「やっと見つけたぜ」
 ジャンパー姿の男がはいってきた。さきほどのひったくりである。あの場から逃げおおせたらしい。たいしたものだった。
「リベンジだぜ」
 ひったくりが滑るように走りきた。顔が狂気にゆがんでいる。
 クリスマスケーキはゆるく首をふった。さきほどはモンブランを抱いていた。だから、つまずかせるだけにとどめたのだ。いまは、おのれの身ひとつ。
「うおおおお!」
 ひったくりの拳が空気を灼いて襲いくる。まともにあたればチョコレートでできたサンタの家がふっとぶだろう。その下のクリームも根こそぎもっていかれるかもしれない。
 あたれば、だ。
 クリスマスケーキは悠々と拳をかいくぐった。のみならず、みぞおちに肘を食いこませる。
「うっ」
 と、うめいたあごには渾身のアッパーをおみまいする。
 ひったくりが宙に舞った。放物線をえがき、どうっとばかりに床に落ちる。彼の手足は痙攣していた。白目もむいている。警察がくるまでに目をさましはしないだろう。
「さわがしいの」
 職人の疲れた声にクリスマスケーキは勢いこんで振りかえった。目で問う。
「すまない」
 職人が目をふせた。
 クリスマスケーキはがっくりと片膝をつき、うなだれた。希望の光がとだえたのだ。
「ケーキとクリームの部分はなんとかなったが」
 職人の声に、顔がゆっくりとあがっていく。
「栗がどうしても復元できない。あれがないとモンブランは意識をとりもどせないだろう」
 逆にいえば、栗があれば回復するのだ。
 クリスマスケーキは立ちあがった。無言で礼をし職人に背をむける。その背は職人に告げていた。
 自分が栗を見つけてくる、と。
 漢の背中であった。

 クリスマスケーキは泣いた。
 一ヶ月前からつきあっているモンブランが、店員の不注意でつぶされてしまったからだ。
 意地っぱりで甘えん坊のモンブランは、店員の手からすべり落ちたお盆によって、おおきく形をつぶしてしまっていた。もう、あの笑顔では語りかけてくれない。
 おりしもクリスマスイヴで、街は浮かれざわついているときであった。
 クリスマスケーキは泣きながら店員の胸倉をつかみ、壁へと押しつけた。
 オレのモンブランをかえせと、血を吐くように叫んだが、店員は目をそらして口を閉ざしているだけだった。
「おい、クリスマスケーキ。そのへんにしておけよ」
 マスターの声に、クリスマスケーキは店員を解放してやった。
「いつまでもこだわるんじゃない。モンブランなんて星の数ほどもあるだろう。ほら、こっちのモンブランのほうが栗の輝きが……」
 マスターの説得をみなまで聞かず、クリスマスケーキはつぶれたモンブランをその腕にだくと、脱兎のごとく店をでた。
 ちょうどガラス扉をくぐった客が、何事かとふりかえったが気にしなかった。
「おい、クリスマスケーキ!」
 マスターの声が背中にあたった。
「お前、クリスマスのためだけに生まれてきたんじゃないのか! それを放棄するつもりか! せっかく二十世紀最後のクリスマスケーキになれたのに!」
 マスターの声が、耳にいたい。存在理由を自分で否定しているのだから。
 いや、違う。
 クリスマスに食べられるために生まれたのではない。この腕に抱くモンブランとすごすために生まれてきたのだ。
 クリスマスケーキは走った。
 モンブランを胸にだいて走った。
 自棄になったのではない。モンブランとのたのしい日々を再開するためのあてが、たったひとつだけあり、そこをめざして駆けているのであった。
 モンブランと仲良くなれたきっかけは、おなじケーキ職人に作られたという共通点があったらだ。あのケーキ職人にならば、このつぶれたモンブランを再生することができるかもしれない。いや、きっとできるはずだ。
 クリスマスケーキは交差点を右にまがった。
「ひったくりだ!」
 通行人の声が、まず聞こえた。
 そして、なんにんかの悲鳴。
 前方の人垣を押しのけるようにして、黒いジャンパー姿の男が駆けてきた。手にはブラウンのハンドバッグをつかんでいる。
「どけえ!」
 男の叫び声に、クリスマスケーキはすなおによけた。ぶつかって、抱きかかえているモンブランがもっとつぶれてはたまらない。
 ただし、片足だけは動かさなかった。
「うお!」
 クリスマスケーキの足につまずいた男が、もんどりうって倒れた。
 苦鳴がきこえる前に、クリスマスケーキは男の右足を思い切りふんづけた。
「ふぎゃ!」
 骨折はせずとも、かなり痛いはずだ。すぐには逃げだせないだろう。
 クリスマスケーキは男からハンドバックを取りあげ、前方から走ってきたご婦人に手渡した。
「あの……」
 ご婦人の言葉に片手をあえるだけでこたえ、クリスマスケーキはふたたび歩きだした。
 ケーキ職人の元についたのは、それから五分たってからだ。
 初老にたっし、髪の毛に白いもののまざった職人は、はじめ難色をしめした。
 クリスマスケーキの強い説得の前には、まったく意味をなさなかったが。
「やるだけはやってみよう」
 その言葉を残して、ケーキ職人は奥の厨房へとひきこんだ。
 ストゥールに腰かけ、クリスマスケーキはため息をついた。
 自分にできることはすべてやった。ケーキ職人にまかせるしかない。あとできることといえば、神に祈るのみだ。いや、いまなら、サンタクロースにたのめばかなえてくれるのか。
 二十世紀最後のクリスマスケーキだという自負も、なにもなかった。
 クリスマスケーキは、ただ、祈った。
 扉のひらく音がした。
 厨房の扉ではなく、出入り口のほうだった。
「見つけたぜ」
 黒いジャンパー姿の男――さきほどのひったくりであった。あの場からは、逃げおおせたらしい。たいしたものだ
「リベンジ、だぜ」
 男がつっかけてきた。
 クリスマスケーキはストゥールからおりながら、首をふった。
 さきほどは、モンブランを抱いていた。だから、つまづかせるだけにとどめたのだ。
 いまは、おのれの身ひとつ。
「うおおおお!」
 ひったくりの拳が、空気を灼きながら襲いきた。
 まともにあたれば、チョコレートでできたサンタの家がふっとぶだろう。その下のクリームも、根こそぎもっていかれるかもしれない。
 あたれば、だ。
 ひったくりの拳があたったのは、空気にのみ。
 クリスマスケーキ、すでに、ひったくりのふところにはいっていた。
 みぞおちに、肘打ちをくらわせる。
「う」
 という、うめきが落ちてくるよりも早く、ひったくりのあごにアッパーをおみまいする。
 黒いジャンパー姿が宙に舞った。
 ひったくりが放物線をえがき、どうっとばかりに床に落ちた。
 白目をむき、完全に気絶していた。
 厨房のドアがあいたのは、次の刹那だった。
 クリスマスケーキはふりむき、職人に目で問うた。
 職人は目をふせて、首を左右にふった。
「すまない。わたしでは……」
 クリスマスケーキは片膝をついた。
 希望の光はとだえたのだ。
「ケーキとクリームの部分はなんとかなったが」
 職人の声に、クリスマスケーキは顔をあげた。
「栗がどうしても復元できない。あれがないと、モンブランは意識をとりもどせないだろう」
 逆にいえば、栗があれば回復するということであった。
 クリスマスケーキは立ちあがり、無言で職人に背をむけた。
 その背中は、職人につげていた。
 自分が栗を見つけてくる。そのあいだ、モンブランをたのむと。
 漢の背中であった。

 折原は肩を押されてつんのめった。
 だがしかし、肩を押されたと思ったのは錯覚だった。押されたのではなく、弾丸がかすめた衝撃なのだ。
「ぐわ!」
 と悲鳴をあげたのは折原ではなかった。
 岡島が胸を真っ赤に染めている。被弾したのだ。
 自分のせいだという慙愧の念が頭をよぎった。駆けださなければ山田も刺激されなかったはずだ。
「すまない」
 と心のなかであやまり、折原は走る方向をかえた。もうひとりの岡島にむかう。多勢に無勢である。人質をとらなければ逃げられそうになかった。
 岡島にむかって手をのばして、またつんのめった。
 弾丸がかすめたのではない。だれかに足首をつかまれたためだ。
「逃がじま、ぜんよ」
 足首をつかんだものがそういった。にごった声なのは肺に血が貯まっているからか。撃たれたほうの岡島であった。
「なんで!?」
 瀕死のはずだ。逃亡者など気にかけている余裕はないはず。自分の命よりも逃亡者を捕らえるほうが大事なのだろうか。
「離せよ!」
 折原は岡島の顔面を蹴った。けが人を足蹴にする行為に良心が痛む。だが、足は蹴りつづけた。
 手が離れた。
 ──いましかチャンスはない!
 と、折原は起きあがろうとした。
「逃がしませんよっていってるんです!」
 横合いからタックルされた。もうひとりの岡島だ。ふたりで草原を転がる。
 両腕が腹にまわされ、逃げられないようにがっちり固定されていた。その細い腕のどこに、と思われるほど力が込められている。はずれない。